アダージォな春


「や、…やっと通しで最後まで弾けた……!」
うはあ、とうなって、大地は練習室のピアノに突っ伏した。だが、その傍らで律は冷静に
批評する。
「つっかからずに弾けたというだけで満足するな。まだ弾きこなせているわけじゃない」
「…うん、わかってるよ」
厳しい言葉に、少ししょげた顔で大地が身を起こすと、律は言葉のわりには優しい、穏や
かな春の午後の日差しのような笑顔を向けている。…どきっとして、思わず目をそらした。
「慢心するのは良くないが、必要以上に卑下することもない。…ヴィオラを始めてたった
一年にしては、大地はよくやっている。…不思議だな。技術はまだまだなのに、大地のヴ
ィオラは胸に響くんだ。よくうたう。……もちろん、元々の音楽の素養があるからかもし
れないが」
大地は困った顔をして、ゆるゆると首を横に振った。
「素養って言ってもらうほどギターを弾きこなしていたわけじゃないよ。俺の技術が未熟
なのに、ヴィオラがうたうというなら、それはたぶん、このヴィオラが魔法のヴィオラな
んだ」
「………は?」
律はぽかんとした。
「……魔法のヴィオラ…?」
「そう。元々これは学院所有の楽器だしね。妖精が作って、魔法のかかった楽器ってこと
も充分あり得る」
律があまりに怪訝そうな、不得要領な顔をしているので、今度は大地の方がぽかんと目を
見開いた。
「……あれ?……何だ、律、知らないのか?魔法のヴァイオリンの伝説」
「……この学校にはいったいいくつ伝説があるんだ」
律が拗ねたような声でぼそりと言ったので、大地は思わず吹き出した。
確かにそうだ。曰く、ヴァイオリンロマンス、曰く、学校創立に関わる妖精、森の広場の
猫にも、屋上の風見鶏にも、後夜祭のワルツにも、何かしら伝説がつきまとう。確かに星
奏学院では、伝説が大安売りされている。
「でもこれは結構メジャーな伝説だと思ってたんだけどな。何年か前の学内コンクールで、
普通科の女の子がコンテスタントに選ばれて、楽器は全くの素人だったはずなのに見事に
弾きこなして…って。…初心者とは思えない技術力に、彼女のヴァイオリンは音楽の妖精
が作った魔法のヴァイオリンなんだってまことしやかに噂された、とか何とか」
「バカバカしい冗談だ」
律は一言のもとに言い捨てた。
「そういう噂があるのは本当だよ」
「だが、積み重ねた練習なしに、いきなり弾けるようになるなんてあり得ないし、そんな
力で弾きこなせた曲に魅力を感じることもあり得ない。……俺は、大地とヴィオラの交歓
を最初から今までずっと見てきているんだ。大地がここまで弾けるようになったのは、大
地の努力があるからで、魔法なんかじゃない」
律の声の熱っぽさに、気圧される思いで、大地は小さく目を見開いた。
「……ありがとう、律」
「……」
ふい、と律は顔を背けた。珍しく声を荒げたためだろうか、頬が少し上気していた。
「…律がそう言ってくれて本当にうれしいし、俺も練習を怠ったつもりはないけど、……
でも時々、…本当に時々、…このヴィオラはもしかしたら、魔法のかかったヴィオラなん
じゃないかって、思うことがある」
「……大地?」
律は眉をひそめた。
「時々だよ。いつもじゃない。…でも、このヴィオラを弾いていると、頭も心も空っぽに
なってきて、弦を押さえて弓を動かしているのは自分のはずなのに、まるで自分は何もし
ていないかのような、…共鳴板か何かのように、俺の身体を使って音を響かせているだけ
のような、…そんな錯覚をすることがあるんだ」
「……」
「うまく言えないけど、ヴィオラからじゃなくて、俺の身体の中の空洞から音が響いてい
るような、…そんな感覚なんだ」
律は、ふう、と息を吐いた。
「俺は魔法は信じない」
大地は困った顔で笑った。律はそんな大地をのぞき込むように一歩近づく。
「だが。…楽器との相性や、運命は信じる。それに楽器には、楽器自身の意思のようなも
のがある、と思うこともある。人の手を経たものは特にだ。…俺がこう弾きたいと思うこ
こぞというときにヴァイオリンが応えてくれたり、…何だか曲の好き嫌いがあるようだと
思えたり」
「好き嫌い?……律が、じゃなくて?」
「俺がじゃなくて、ヴァイオリンが。…演奏に、荒々しさや激しさが求められて、弾いて
いる最中に弦が切れてしまうような曲は嫌いらしい。ちっとも響かない」
「…」
吹き出していいのか、真面目にうなずくべきなのか、困惑する。
「大地のヴィオラは、きっと大地を待っていたんだろうな」
律は、言って、そっとヴィオラの側板を撫でた。
「このヴィオラは他のものよりも大きいから、女性や小柄な男性には少し扱いが難しい。
まるで、大地の腕の長さや手の大きさにあつらえたかのようだ。……だが、そういう物理
的な問題だけじゃなくて、俺には、そのヴィオラが大地の手で弾かれることを喜んでいる
ように聞こえるときがある。ヴィオラがヴィオラ自身の意思で、一生懸命大地に応えよう
としている、と、思うことがあるんだ」
「……ヴィオラに意思がある。……だから、…うたう?」
「かもしれない」
「じゃあやっぱり、このヴィオラが特別な魔法のヴィオラなんだ」
「そうじゃない。それが相性で、運命なんだ。…初めて見るドアの鍵穴に、自分の手持ち
の鍵がぴたりと合って、鍵が開いたとする。それは魔法のように見えるが魔法じゃない。
…だろう?」
大地は律の言葉をゆっくりと反芻した。律は急かずにそれを待つ。ゆるゆると大地がうな
ずき、うん、と小さくつぶやくまで。
「…なんとなく、律の言いたいことがわかってきた」
「魔法だなんて言うな。そんな言葉にしてしまうと、自分に胸を張れなくなる。大地は胸
を張って、これが自分の力だと言っていいんだ。ヴィオラとの運命を引き寄せたのも実力
のうちだ」
「……律」
「もう一度弾かないか、大地」
「……今の曲はまだ、ヴィオラがうたってくれないけど」
「そうだな、まだ上手くはない。…だがしみじみと愛おしい音だ。……大好きだ」
耳なじみが良くて、不完全で。…人の声に一番近いと言われるヴィオラ。
ゆるり、弓が弦に触れて、震わせて。大地のヴィオラが響き始める。

運命の二年目、春はアダージォで始まろうとしていた。