愛のあいさつ

「休み時間まで部室とは思わなかった」
思いがけない声に律は振り返った。
準備室の扉に肘をついて大地が苦笑している。律と目が合うとゆっくり近づいてきた。
「楽譜の整理か?」
律は乱雑に楽譜が詰め込まれた棚の前に立っている。フルオケ用の楽譜だけでなく、少人
数編成アンサンブル用の楽譜もそろっていてとても充実しているのだが、残念なことに全
く整理されていなくて何がどこにあるのかわからない。
「少し捜し物をしていただけだ」
律は小さく肩をすくめて棚の前を離れた。入れ替わりに大地が楽譜の棚の前にしゃがみ込
む。
「何とか出来ないかなあ」
普段のおおらかでおおざっぱな言動の割に、意外と生真面目な性格の彼は、この乱雑さが
少々苦になっているようだ。
「どう整理したら使いやすいのかさえわかれば、手の着けようもあるんだが」
さっぱりわからない、とつぶやく言葉の裏には、おそらく「普通科の俺には」という言葉
が隠れている。
普段、他の部員の前では決して匂わせないが、彼の中にはかすかにまだ、普通科の自分が
ここにいることの不安が残っているのだろう。律は小さく咳払いした。
「俺にもさっぱりわからない」
大地だけじゃない。他にもきっと、整理しようと試みた誰かはいたはずだ。その証拠に、
楽譜の並びには整理しようとした痕跡が見受けられる。ただ、作曲家や年代ごとにまとめ
ようとした誰かと、アンサンブル編成ごとにまとめようとした誰かがいたようで、まざり
あって余計に混乱しているのだ。
「…そうか」
大地は律に背を向けたままだが、苦笑の混じる穏やかな声で応じた。少し節の目立つ長い
指で、ゆっくりと弄ぶように楽譜を引き出したり戻したりしている。その手がふと止まり、
続けて何部か楽譜を引き出すのを見て、律は少し首をかしげた。
「…どうした?」
「いや、…同じ楽譜がたくさんある」
「同じ?」
「正確に言うと、同じ曲の、違う編成の楽譜がたくさんある」
「タイトルは?」
「Salut d'amour 」
「…ああ」
律は楽譜の棚の前に戻った。しゃがみ込む大地の隣に立って腰をかがめ、彼が見ている楽
譜をのぞき込む。
「その曲は元々、作曲家自身もいろんなバージョンを残しているんだ。ピアノソロだとか、
ピアノとヴァイオリンの二重奏だとか」
そしてこの美しく優しい旋律を愛したのは作曲家本人だけではなかった。多くの人に愛さ
れたこの曲は、たくさんの編曲を有している。
大地は手にした楽譜を数え上げた。
「ピアノソロ、ピアノとヴァイオリンとチェロのトリオ、弦楽四重奏、ピアノとヴァイオ
リン、ヴァイオリンとチェロ、ヴァイオリン二重奏、ヴァイオリンとフルート、ヴァイオ
リンとクラリネット、……ヴァイオリンとトランペット?」
淡々と編成を読み上げた大地だったが、最後の一つには怪訝そうな顔をした。
律は苦笑を指先で押さえるようにしながら、もしかしたら、と口を開く。
「元々オケ部の持ち物ではなくて、学科の課題曲か何かだったのかもしれないな。だから、
二重奏でいろんな編曲がある」
それを誰かが適当に準備室の棚につっこんでいったのかもしれない。ありそうなことだ。
律の説明になるほど、とうなずきながら、大地はまだ棚をごそごそと探している。しかし、
やがて何かあきらめた様子で、手にした楽譜を再び棚に戻して立ち上がった。
「…こんなにあるのになあ」
「…?何が」
並び立つと、大地の方がやや目線が高い。律は眼鏡を押し上げながら彼を見上げる。一方
大地はむしろ律から目をそらすように棚の上を見つめている。
「この曲に、ヴァイオリンとの二重奏の編曲がこんなにたくさんあるのに、…ヴァイオリ
ンとヴィオラの編曲楽譜はないんだなと思ってさ」
「…探していたのか?…どうして」
「どうしてって、そりゃ…」
大地は律を見下ろして、…少し困った様子で目をすがめた。
「…弾いてみたいなと思うからだよ。…弾けるかどうかはわからないが」
言って、また視線をそらす大地に、律は静かに話しかけた。
「大地。…俺は別に、どうして楽譜を探すのかと聞いたつもりはない。…そうではなくて」
かすかにかしげた律の襟足で、まっすぐな髪がさらりと揺れる。
「…どうして、俺に聞かない?」
はっ、と大地の肩が震えた。
「…律」
大地が再び律に視線を向けるよりも早く、すいと律は立っていって、かばんから何かを取
り出す。…大地に向かって突き出されたそれはまさしく、大地が探していたとおりの、ヴ
ィオラとヴァイオリンの二重奏に編曲された愛のあいさつの楽譜だった。
「少し弾いてみようかと、さっきそこから取り出したところだった。…どうせ弾くなら、
ヴィオラとの合奏がいいと思って」
「…俺と?」
確認する大地の声がかすかに震えている。
「何か問題が?…大地も弾いてみたいと思ったんだろう?さほど難しい編曲じゃない。少
し練習すればすぐ弾けそうだ」
あとで、印刷室でコピーを取ってくるよ。
律の言葉が途切れても、大地はまだ呆然としていた。困惑して、律は大地の顔をのぞき込
む。
何かまずいことでもあるのだろうか。忙しくて今すぐには時間が取れないとか?
「…別に、今すぐに弾こうと言っているわけじゃない。…いつでもいいんだ。…大地の時
間のあるときで」
とん、と胸を軽くこぶしで叩くと、ようやく我に返った大地が律に焦点を合わせた。どこ
かおろおろと狼狽した様子なのが、いつになく幼く見える。
「…律。…さっき言ってた捜し物って」
「…ああ。…ヴァイオリンとヴィオラの合奏譜にいいのがないかと、少し探していた」
いつでもいいんだ。急がない。でもいつか必ず。
「一緒に弾こう。…大地」
律の言葉に、大地はぐっと何かを呑み込んだ顔になった。それから、何か口の中でつぶや
いて…律には、参ったな、と聞こえたが、聞き間違いかもしれない…一瞬目を閉じ、やが
て目を開いて、腹をくくったという顔でさっぱり笑った。
「……気合いを入れて練習するよ」
いつもの、どこか悠然とした大地が戻ってくる。その姿にゆるゆると彼のヴィオラの音が
重なってゆく。まだ聞いてもいない大地のかなでる愛のあいさつの旋律が、律の耳には既
にはっきりと届いていた。