嘘と合鍵


「君を本気で好きなわけやない」

……つまらない嘘をついた。彼は目を見開きぽかんとした顔で、…そのくせ、眉をひそめ
るようにして優しく笑う。
彼が見せたものが苛立ちではなく笑みだったことが、蓬生の喉を詰まらせた。……傷つけ
た、と思った。気まずくて、……その後はさしたる会話も交わせず、蓬生はそそくさと横
浜を後にした。……それが一週間前の話。
「……」
その日以来、連絡をしていない。元々、遠距離だからそう頻繁には会えないし、互いに
(特に大地が)忙しい身体なので連絡を取り合わないのもいつものことだったが、無性に
悪い方に悪い方に考えが傾く。
怒っているだろうか。…いや、怒っているならばまだいいが、真に受けたりはしていない
か。所詮遊びでしかないのだと、何かを諦めたりはしていないか。
「……」
元より、大地は諦めの早い男だと思う。格好を付けたがる分、あがかない。駄目なのか、
それならば、とあっさり諦めるような節がある。自分も似たような部分があるので、目に
つくのだ。もっとも、蓬生の場合は諦めざるを得ないことが多すぎて、見きわめが早くな
ったのだが、大地は恐らく恵まれた環境にいるので深追いをしないのだろう。
「……」
蓬生は携帯を見た。…何のメールも入っていない。差し迫った用事はないし、蓬生自身も
連絡をしていないのだから不思議はないが、妙に苛立つ。

−…このまま何も連絡せんかったら、…どうなるんやろ、俺ら。

こんな妙な焦りは初めてだった。いてもたってもいられない気持ちがした。いらいらと電
車に乗って、ふと、…新幹線の駅を足元に持つ山沿いの高層ビルが目に入って。
…気付いたら蓬生は、電車を乗り換えていた。


地元ではないのに妙になじんだ街を歩きながら、蓬生は独りごちていた。

−……何やってるんや、俺。

苦い笑いが唇に昇る。時間は深夜に近づいている。宿のあてはない。……いや、厳密に言
えば、まったくあてがないわけではない。…だが、それをあてにすることは、今は出来な
いというだけだ。
角を曲がった。このあたりは大学が多く、学生向けのマンションやアパートがたくさん並
んでいる。その中の一つ、茶色い外観のこぢんまりしたワンルームマンションの前で蓬生
は足を止めた。
大地が一人暮らしを始めてからまだ一年たつかたたないかなので、ここを訪れたことは数
回しかない。だから、マンションの場所はさておき、外観からどの部屋が大地の窓だった
かまでは思い出せない。見る限りでは、明かりが消されている窓も多い。夜は遅いが大学
生がそんなに早く就寝するはずもないと考えれば、留守にしている部屋が多いのかもしれ
なかった。

−…大地も留守だろうか。

考えて、蓬生はふと、胸ポケットを探った。ポケットの中のキーホルダーには、自宅の鍵
だけでなく、実は大地の部屋の合鍵も下がっている。それを使えば、大地が留守でも部屋
に入ることが出来る。もっとも、そうする勇気は、今の蓬生にはなかったが。
「……」
ため息一つついて、蓬生はまた窓を見上げた。
記憶にあるマンションの造りと、大地の部屋番号を思い浮かべながら、ゆっくりと大地の
部屋を捜す。恐らくここ、と見定めたその部屋は、カーテンは閉じられていたが、隙間か
ら明かりがもれていた。

−…ああ、…あそこにいる。

蓬生はその窓をじっと見つめた。
今のままでは、彼の部屋を訪なう勇気は出ない。けれど、もし彼の部屋の窓が開いたら。
「……」
真夏の熱帯夜、クーラーが効いているはずの部屋の窓。…開かないだろうことは百も承知
で、…だからこそ、万が一開いたら、…勇気を振り絞って彼を訪ねることが出来る。……
そんな気がして、路地裏にひそり佇む。
熱帯夜といいつつも、穏やかにそよいで涼をかもしてくれていた風が、ふと静まった、そ
のときだった。
がた、ときしむ音の後に、静かに窓が開く。
「…!」
開いた窓は大地の窓だ。…おまけに、本人が顔を出す。…空を見上げて、月を見上げて、
…月齢でも確認しているのか、それとも何か物思いか。
あげく、その顔が何気なく路地に向けられた。…彼は、唖然として目を見開き、
「…土岐…!?」
声を上げる。
蓬生は笑い出したい気分になった。いったいどんな奇跡だろう。大地が窓を開けることで
さえあり得ないほどの確率なのに、こうして目まで合うなんて。
小さな奇跡と、些細な偶然と。……それから。
窓から大地の姿が消えた。蓬生はがっかりしたりなどしなかった。…だって、わかる。あ
の目を見れば、大地の次の行動は読める。
階段を駆け下りているのだろう足音。すぐに姿が見える。息を切らせて。必死の顔で。
「…土岐!」
「…榊くん」
喜色がにじむ自分の声。
互いが必死で、本気で望むから。…つながっている、恋。
「入ってくればいいのに!……こんなところで、何…!」
肩をつかんでのぞき込んでくる大地の真顔に、蓬生は少し苦い笑いを返した。
「…こないだ、あんなこと言うてもうたから、…入りづらくて」
「…この間?」
……聞き返されたくないのに。……まあしかし、大地としては聞き返さざるを得ないのか。
…蓬生は小さくため息をついた。
「……本気やない、…て」
「……ああ」
大地はぽかんとする。
「…あれか。……あんなこと、別に真に受けたりしてないから、よかったのに」
さらりと言われて、悩んだ分、少しむっとする。
「…何で」
「何でって、…だって、そりゃ」
大地は笑った。眼を細くして、照れたように。くしゃくしゃの笑顔で。その笑顔で蓬生を
肩から抱き寄せ、こつんと額を合わせる。
「……五百q離れたところにいるのに合鍵が必要なくらい、近い存在なのに、…本気じゃ
ない、なんて、今更」
大地はそこで一瞬言葉を切り。

『誰が信じるって言うんだい?』

…大切な最後の一言は耳の奥へ。そっと、囁くように。
「……」
直接鼓膜を震わされる感覚に、声の甘さに、蓬生の身体が無意識に震える。
「……そう、なん?」
「そうだよ」
バカだなあ。
付け加えられてむっとささくれる心も、大地の抱擁の暖かさにすぐなだめられてしまう。
まるでそれが当然の成りゆきのように、降りてくる口づけに素直に応えようとして、…さ
すがにここは往来だと我に返り、押し返した。
「……何」
大地は不満そうだ。
「何、やあらへんわ。…こんなとこで、どこまでする気ぃや。……ここから先は、君の部
屋や」
その蓬生の言葉に、大地はうれしそうにくすと笑う。
「入りづらい、って言ってたじゃないか」
…むっ、とした。
「いらん揚げ足取るんやったら、帰る」
蓬生が怒った声を出すと、対抗するように大地も拗ねた声になった。
「嘘つき」
「何で」
「帰る気なんか、ないくせに」
「……」
そうだ、…その通りだ。…帰る気なんかない。ようやくつながった身体を、触れるように
優しく交わした言葉を、今は離したくはない。
「………うるさいわ、阿呆」
だからこれが。…精一杯の強がり。
「…蓬生のその悪口、…久しぶりに聞くと何だか、わくわくする」
「…倒錯したセリフ、言わんといて」
「本心なのに」
キスはしない。でも、身体を放す代わりに手はつなぐ。指も絡める。きゅ、と握れば、キ
スしようとしたときよりも大地の顔が赤くなった。
その顔がかわいくて、蓬生はひそりと笑った。


嘘も、時にはいい。……その後で、いつもより素直になれるから。