愛の悲しみ

「なあ、如月ー。お前、北条さんふったって?」
部活の後でいきなりそう話しかけてきたのは、トロンボーンを担当するオケ部の同級生だ
った。
「なんつーもったいないことするんだ、あんな美人を!しかもいいとこのお嬢様でフルー
トも上手い!いったい何が不満でふったんだよ!?」
「?」
律は首をかしげている。
「ふった?……何のことだ」
聞き返されて今度はトロンボーンくんの方がきょとんと目を丸くした。
「え、ちがうのか?…だって、北条さんがみんなに触れ回ってるぜ。如月に『あなたが好
きです』って言ったら、『どうもありがとう』の一言があったきり次の会話がなくて、し
かたがないから『私とつきあってください』って念押ししたら、『今からオケ部の練習が
あるから駄目だ』って言われたって」
律は眉を寄せた。何か思い出そうとする風情で眼鏡のブリッジに指を当て、やがてゆっく
り、確かに、とうなずいて。
「彼女とそういう会話をした記憶はある。…が、それと彼女をふるのと何の関係があると
言うんだ」
「……」
「……」
ことここに至って、隣でヴィオラをいじって聞かぬふりでいた大地も、さすがに知らん顔
ができなくなった。それでも一生懸命こらえようと努力はしたが、くっくっと笑いで喉が
鳴るのを止められない。一方、トロンボーンくんの方はああもう、と苦虫を噛みつぶした
ような顔になる。
「……状況を理解してなかったのかよ……。……あのな、つまりな、北条さんはお前と恋
人同士になりたかったの!つきあってくれってのはそういう意味!」
「……はあ」
「……はあ、じゃなくってさー。…つきあう気がないにしても、もうちょっと上手く断る
言葉を考えとけよ。でないと恨まれてあることないこと言いふらされるかもしれないぞ。
…そうだ、榊に聞け。こいつ、上手いから」
「は?俺?」
いきなり矛先がこちらに向いて、慌てたのは大地だ。
「何だよいきなり」
「うるさい。俺は知ってるぞ。お前も普通科で有名な可愛い子ふったって。…でもすげー
ふり方が上手かったって。『俺、今、オケ部の練習についていくことで毎日がいっぱいい
っぱいで、余裕がないんだ。きっと君につまらない思いをさせてしまうから、今は君とつ
きあえない、ごめんね』……くーっ!」
うなって彼は、ばんばんばんと目の前の机を叩いた。
「すばらしいね!相手を傷つけずにさりげなくごめんねする時の見本みたいなセリフだ
ね!」
まだばんばんばんばん机を叩いている。その前で大地は頭を抱えた。
「何だよ。なんでそんな事細かに知ってるわけ?」
ようやくトロンボーンくんは机を叩くのを止めて、にやりと笑った。
「女子の情報網は怖いぞー、榊。一日あれば、誰と誰の告白でも学校中を駆けめぐるね。
おっそろしいね」
「…俺がおっそろしいのは、その情報を仕入れてセリフを暗記してるお前だよ」
「俺だって、全員の告白セリフを覚えてるわけじゃないよ。如月のは大笑いさせてもらっ
たし、榊のは上手いなあって感心したしで覚えてるだけ」
「おーい、帰るぞー」
そこでちょうど、彼のトロンボーン仲間が片付け終えて声をかけてきた。おう、と返事し
て彼は立ち上がる。
「お前ら、まだ帰らねーの?」
「もう少し練習していく」
「俺も」
「そっか。じゃあ、また明日な」
「ああ、また明日」
「…」
無言で手を上げるだけの律には晴れ晴れと手を振り返して、彼は小走りで音楽室を出て行
ってしまった。他の生徒も、一人、また一人と姿を消し、大地と律だけが残される。
ため息を一つ、口笛のように吹いて、大地はヴィオラを取り上げた。
「やれやれ、やっと静かになった。…なあ、選抜用の曲を通して弾いてみるから、ちょっ
と聞いてくれないか、律」
「……」
「…律?」
もう一度、今度は少し声を強くして呼ぶと、律ははっと身を震わせた。大地は眉をひそめ
る。
「ぼうっとして、どうした?」
「…いや」
ふー、と肺の底の空気まで全部吐き出すようなため息をついて、律はゆるりと首を振った。
「…つきあうとか、恋人になるって、何をすることなんだろうと思って、ちょっと」
それが、あまりにも「本当にわからない」と言いたげだったので、大地は思わず頬をゆる
めた。
「…」
不満そうに律が大地をねめつけてきた。慌てて大地はゆるんだ頬を手で押さえる。それか
ら改めて、律に向き直って、眼を細めて笑って。
「つきあって何をするかは人それぞれだと思うけど、結局は二人で一緒にいたいってこと
なんじゃないかなと俺は思うよ」
昼休み、放課後、休日。…出来るならばもっともっと多くの時間を二人で過ごしたい。同
じ時間を分かち合いたい。…そういう気持ち。
むっつりと納得いかなげな顔をしていた律がそこで口を挟んだ。
「その気持ちは何となくわかる。俺も大地とこうしているのは楽しい」
「…っ」
思いがけない律の一言に、大地は手にしていた弓を取り落としそうになった。
…真顔でさらっと何を言うかと思ったら。……それじゃまるで、告白じゃないか。
「だが、俺と大地がこうして一緒にいることは、つきあっているとは言わないんだろう?
…お前の言うとおり、昼休みも放課後も、休日だってたいていは、一緒に楽器をさわって
いるのに」
「…それは、俺たちが男同士でただの友達だからさ」
胸をちくりと何かに刺されながら、大地は少し自嘲めいた笑いをこぼした。
…嘘だ。俺は律のことをただの友達とは思っていない。…出来るならば、もっと違う名前
で呼ばれたい、呼び合いたいと思っている。
だけどそれは道から外れることだ。自分だけならまだしも、大切な律に道を踏み外させて
しまうことは怖くて、大地はただの友達を必死で心がける。
……俺は、偽善者だ。
「…俺たちの間には音楽がある。もしそれがなかったら、俺たちはきっと、放課後や休日
を別々に過ごしているだろう。…そういうのはたぶん、つきあっているとは言わないよ」
大地のどこか言い聞かせるような言葉に、律はきっぱりと首を横に振った。
「俺はそうは思わない。…たとえ音楽が間になくても、俺は大地と過ごしたいと願うだろ
う。お前と一緒にいる時間は好きだ」
「……」
大地は、笑っていいのか、唇をかんでいいのか、もうわからなくなってしまった。
…そんなふうに俺を揺らさないでくれ、律。俺は必死なんだ。お前の前で、必死で、何で
もない顔をしてるんだ。…お前はそんなこと、ちっとも知らないだろうけど。
しばらくじっと大地の顔を見つめていた律は、やがて小さな吐息をこぼして目をそらした。
「…だが、俺たちの間に音楽が存在しないという仮定はあり得ないし、お前の言うとおり、
俺たちは男同士だ。つきあうという観念が男女間にだけ存在するものなら、俺たちの関係
はいわゆるつきあっているというのとは違うんだろう。…納得はいかないが、理解はした」
目を伏せる前の一瞬、律の瞳にも苦いものが浮かんだ気がして大地は目をこらしたが、楽
譜をばさばさとめくって、それで、と顔を上げたときの律は、もういつもの彼だった。
「クライスラーをさらっている途中だったな。どっちを聞けばいい?…愛の喜びか、愛の
悲しみか」
「…愛の悲しみ」
ひそりとつぶやいて姿勢を正し、…大地はそっと、弓を弦に滑らせた。
クリスマスコンサートに向けて、メンバー選抜がもうすぐ行われる。そのときに弾こうと
思っている曲だった。
普段の合奏であまりヴィオラが弾くことのない、曲の主旋律を、低く深くゆるやかにかな
でる。
「ヴィオラの、悲しみか」
律が少しかすれる声で言った。
「ヴァイオリンよりも甘さが少なくて、…ひどく切実だな。…誰が弾いてもこうなるのか、
それともこれは大地の音だからなのか」
一人言なのか、それとも己に問われているのか、大地にはわからなかった。ので、何も答
えず演奏に専念する。
じっと聞いていた律が、大地に届くか届かないかの小さな小さな声でつぶやく。否、もし
かしたらそれは、大地の空耳だったのかもしれない。

…あんまり音がきれいで、…痛い。