ただ一言を探してる 視線を感じる。別に自意識過剰というわけではない。その証拠に、その視線が追っている のは俺ではなく大地だ。…ふと気付けばいつでも、その視線はひたすらにじっと大地を見 つめている。 試験期間中の図書館はひどく混んでいて、それが誰のどこからの視線なのかはわからない。 けれど確かに俺たちを見ている。 俺は敢えてその視線を遮る位置から大地に近づく。 「大地」 名前を呼んで、傍らに立つと、大地はいつも穏やかに瞳を細めて俺を見る。 「何だい、律」 いつも、いつでも。…たとえどんなに手元が忙しそうでも、彼が俺を振り返らないことは ない。俺の中にじわりと喜びがわいて、…それからはたと、特に何も用事はなかったこと を思い出し、おろおろと、いや、別にと口ごもる。大地は破顔一笑した。 「何の用か忘れた?…いいよ、思い出したらまた声をかけて」 そう言ってまた、手元の作業に戻る。先刻から淡々と問題集を解いているのだ。音楽科の カリキュラムでは、国立理系クラスの大地が取り組む数学の問題集はちんぷんかんぷんだ が、大地は鼻歌を歌いかねない勢いですらすらと解いている。 大地と俺を見る誰かの視線が鋭くとがる。…俺が大地に声をかけたから。俺が大地の傍ら に立ったから。大地が俺を振り返って笑うから。…………大地が、彼女を見ないから。 …そう、鈍い鈍い俺よりもはるかに人の視線や感情に敏なはずの大地なのに、彼は何があ っても彼女を振り返りはしない。見ようとしない。…それは、大地が彼女に気付いていな いからではなく、気付いているからこそだと俺は知っている。振り返っても視線には答え られない。だから振り返らない。 「…」 そのことを内心で喜んでいるみにくい自分に、俺は少し戸惑う。誰かが惨めな気持ちでい るのに、そのことにほっとするなんて。 俺がぼうっと立っていると、大地がまた手を止めて俺を見上げた。 「…律。…よかったら、隣に座らないか?」 「…あ」 はっと我に返った俺に、大地が笑う。 「手持ちぶさたなんだろう。探してるって言ってた本が見つからないのかな。あと一ペー ジやったらきりがつくから、そうしたら一緒に探そうか」 「…いや、それは」 「俺がそうしたいんだ」 口ごもる俺に、大地の声は少しきっぱりと強い。まっすぐに俺を見る眼差しも同じくらい 強い。 ……これは、俺のものだ。……俺の、…俺だけのもの。 呪文のような言葉が俺の中に不意に生まれ、その言葉に突き動かされるように俺も大地を 見返した、その瞬間。 俺たちを見る視線はふいにゆらりと力を失い、気配を消した。 「……ふ」 少し肩の力を抜いた俺に、大地がそっと問いかける。 「……律」 「…?」 「気付いた?」 「……っ」 …何を? ……あの視線のことか。それともあきらめて彼女が姿を消したことか。…それとも。 ……それとも、……俺が、…大地のことを、…………という、ことか? 自分の心の声に俺は困惑した。……俺は大地のことを、どう思っているんだろう?どう表 現したらいいんだろう?……ぴたりと合う言葉が見つからない。 静かに俺の返答を待つ様子の大地に、何を答えていいかわからなくて、俺は無愛想に答え た。 「…何のことだ?」 大地ははっと肩をふるわせ、一瞬ちらりとその目に落胆をよぎらせる。…それから目を閉 じたが、再び開いたときには、いつものように優しく笑っていた。 「…何でもない。…あと一問、急いで解いてしまうよ。…待ってて」 また問題集に向き直る。その横顔にひたりと視線を据えながら、ぐるぐると回る胸の思い をもてあます自分を申し訳なく思う。 ……大地。……俺は、お前を。 この思いを何と名付ければいいのかわからない。心の内を伝えられないまま、俺はお前の 眼差しとお前の傍らという居場所を独占して。 お前のこと、ずっと。……誰より。 見えない言葉だけが、心の中にどんどんどんどん積もっていく。その言葉を俺は知ってい るはずなのに、形にならなくて、声に出なくて。どうしても、大切な言葉が見つからない。 大地。俺はお前になんと言えばいい?どう言えば俺の気持ちをきちんとお前に伝わる? そのたった一言を、探してる。