あなたに会いたくて:朝 「今年の部活納めは28日の午前練習。来年は新年四日、午後練習から。冬休みのスケジ ュールは黒板にも書いてあるので各々メモをとること。パートごとに個別練習がある場合 はパートリーダーから説明があるので確認してください。以上」 てきぱきと副部長が出した指示を受けてそれぞれメモを取った部員が、三々五々部室を出 て行く。大地も黒板を見ながらゆっくりと全体スケジュールをメモした。ヴィオラは特に パート練習の予定はないと先輩から聞いている。それはどうやらヴァイオリンも同じらし く、律もさっさとメモを片付けて立ち上がっていた。 「…寒いのに降らないなあ」 肩を並べて帰りながら、空を見上げて大地は嘆息した。 「この程度の寒さじゃ降らないだろう」 律はさらりと言って静かな目をしている。 「…そっか。律の実家の方はもっと寒いんだ」 「横浜よりはな。…この時期ならもう、何回かちらついている。…雪のない十二月は初め てだ」 珍しく声に感情がにじんだ気がした。 「さびしい?」 しかしそう思って問うと、 「そうでもない」 律はやっぱりあっさりしていた。 「降れば降ったで厄介だ。少しとければ泥ははねるし、ヴァイオリンを弾くとき指がかじ かむ」 現実的な答えに大地が吹き出すと、律も応じるように笑う。 「まあでも、…見たらなつかしく感じるだろうな」 「…そうか」 「でも、こちらの冬は雪がないかわりに華やかだ。イルミネーションも綺麗だし。幼なじ みが見たらきっと喜ぶ」 律は何気なく言ったのだろうが、大地は少しどきりとした。 「…幼なじみって、女の子?」 「ああ。…よくわかったな」 「イルミネーション見て喜ぶのは男より女の子の方がかわいいだろう?」 「…確かに」 律はまた笑った。その笑顔があんまり綺麗だったので、大地は、「その子って彼女?」と いう質問を呑み込んだ。その綺麗な笑顔でさっきのようにあっさりと「ああ」と肯定され たらなんとなくがっくりきそうだったのだ。 「そういえば、いつ帰省するんだ?」 律はぱちぱちとまばたいてから短く答えた。 「28日」 大地の足がふとたたらを踏みそうになった。え、と声を出さなかったのは、律がすぐにこ う続けたからだ。 「夏に帰らなかったから、祖母が冬は早く帰ってこいとうるさい」 …そうだ。律には待っている家族がいるんだ。…それなのに、俺は何を言うつもりだった んだろう。 ……言えるはずがない。あと一日ここにいて、誕生日を祝ってほしいなんて。 いや、本音を言えば、別に当日一緒にいられなくてもかまいはしない。ただ、誕生日のこ とを覚えていてほしかった。 …でもそれも図々しい話だよな、と大地は内心で嗤う。律の頭の中は音楽で満ちている。 それ以外のことなど、入る余地はないのだ。 「…大地?」 呼びかけられて、はっと我に返る。 「何?」 「…考え事でも?」 「…考え事っていうか、ちょっと数えてた。四月からだから、五、六、七、…ほぼ九ヶ月 ぶりか。ご家族も待ち遠しいだろうな」 「待っているのは祖母だけだと思うが」 律は首をすくめた。 「ご両親は?」 「海外出張中。だからどうせ帰っても家にいない。…二月頃に一旦帰国するかも」 「二月?」 「旧正月」 「ああ、なるほど」 アジア系の国だと行事ごとは、新暦の正月より旧正月がメインになる。 「横浜も、その時期は普段よりもっと賑やかなんだろうな」 「うるさいくらいにね。…よかったら一緒に見物に行こうか」 「ああ」 うれしそうに律がふわりと笑った。現金なもので、それを見たとたん大地の気持ちは浮上 する。…つまるところ自分は、律がうれしそうに楽しそうにしているなら、それでいいら しい。 29日。目覚ましよりも早く、大地は目を覚ました。冬至が過ぎたばかりの朝六時前はま だ真っ暗だが、すっきりと目が冴えてしまって、とうてい二度寝は出来そうにない。布団 から出るのは少々辛いが、いつまでもうだうだしているよりはと、大地はえいとベッドか ら出た。 律は昨日帰った。見送りに行こうかと申し出たのだが、たかが帰省で大げさなと笑って固 辞されたのだ(もっともな話だ)。 その代わりというわけでもないが、午前中の部活が終わった後で律のみやげえらびに少し つきあった。 二人であれこれ言いながら……いや、あれこれ言うのは主に自分で、律はただ聞いている だけだったが、それでも和気藹々とみやげものを選ぶのは楽しく、どこかデートめいて、 それだけで充分大地は浮かれた。 途中、少し律が遅れた。 …どうかした?と声をかけると、店のショーウィンドウをのぞき込んでいた律ははっとし た顔になって、なんでもないとすぐ足を速めて追いついてきた。何かいいものが見つかっ たかと聞いても、困った顔で首をかしげるだけで何も言わない。律と別れてから戻ってそ の店をのぞいてみると、そこは品のいい紳士用品の店で、ステッキや帽子、マフラーなど が端然と並べられていた。律は、ヴァイオリンを作ってくれたという幼なじみのおじいさ んと仲がいいらしい。あるいはその人へのみやげにと考えたのかもしれない。 大地は昨日のことをあれこれと思い出しながら手早く着替え、階下に降りていった。 食堂で、母が一人、コーヒーを飲んでいる。 「おはよう」 「おはよ。あら、早いわね」 「母さんこそ」 「私はいつも通り。今日まで診察があるから」 母は療法士として父の病院を手伝っている。朝から晩まで二十四時間べったり一緒の仲良 し夫婦だ。 「お疲れ様」 「その一言は今日の晩の診療が終わるまでとっておいてちょうだい」 母はけらけらと笑った。 「朝ごはん食べる?」 「いや、先にモモの散歩にいってくる。帰ったら自分で適当に食べるから、気にしないで」 「そう?助かるわ。……ああそれと、今日の誕生日なんだけど、ごちそうとケーキ、明日 でいい?今日、ありあわせの材料で作るお料理より、ばーんと明日スーパーで買い出しし た豪勢なお料理の方がいいでしょう?」 「無理はしなくていいけど、でも明日でいいよ。ありがとう、母さん。…じゃあ、行って きます」 「まだ暗いから、懐中電灯持って行ってね」 「そこまで暗くないよ」 「薄暗がりが一番、車から人の姿が見えにくいの!モモがいるのよ、危ないでしょ?」 モモを心配しているのか大地を心配しているのかわからない。 「わかったわかった、持って行きます」 口うるさくも暖かい母親の声に送られ、散歩と気付いてやる気にみちみちたモモの目に苦 笑しながら、引っ張られるように大地は家を出た。 言われたとおりに懐中電灯で道の行く手を照らしながら、坂道を上がっていく。モモは散 歩のルートを覚えているので、大地がぼんやりと考えごとをしながら歩いていても、勝手 に先へ先へと進んでくれる。 今頃律は、移動でくたびれてまだ寝ているだろうか。それともさっさと起き出して、もう ヴァイオリンを弾いているか。 …何となく後者のような気がして、大地は小さく笑った。 リードを引っ張っていたモモが、ふと立ち止まる。三叉路だ。 いつもの散歩コースだとここで右へ折れるのだが、少し長く散歩に付き合ってやるときは ここを左に折れ、大きい公園へ向かう。モモはそっちに行きたそうにしながら、でもおと なしく、今日はどっちですかと聞くように少し首をかしげて尻尾を振っている。 「いいよ。…今日はたくさん散歩しよう」 大地の足が左に向いたと気付くが早いか、モモはまた意気揚々と歩き…いや、小走りに走 り出した。 「モーモ」 たしなめられると少ししょげて、スピードを落とす。だが公園が近づいてくると、または しゃぐように足取りが軽くなった。 公園の入口を入ったところで、大地は少しはっとした。…その足が止まったので、焦れる ようにモモは少しリードを引っ張り、どうかしたんですかと大地を見上げてくる。大地は その視線に気付かない。意識は耳に集中する。 ヴァイオリンの音が聞こえる。 脳裏に閃いた問いは、「誰が」ではなく、「何故」だった。 なぜ。そんなはずはない。この音の持ち主は、昨日横浜を離れたはずだ。 聞き間違いだろうか。…いやだが、自分が彼の音を聞き間違えるはずもない。 天に昇るような音。月から降り注ぐ光のような音。 ふらふらと、音に誘われるように大地は歩き始める。モモが少し困った様子で、それでも おとなしく大地についてくる。 ヴァイオリンは公園の隅のベンチの傍から聞こえてくる。ベンチにヴァイオリンケースを 置き、一人静かに奏でるその姿を見た瞬間、大地はその名を呼んでいた。 「……律……!」 はっ、と音が止んだ。ヴァイオリンの持ち主はこちらをすかすように見ている。大地は思 わず、手にした懐中電灯を振り回した。ここだ、ここにいる、と合図するかのように。 …そして。 「……大地!」 間違えるはずもない声で、彼は自分の名を呼んだ。 「律、…どうして」 飼い主が足を止めたことに不服を訴えるように、わふわふとモモが吠える。ごめんよ、少 し待って、と、そばにあったブランコの柵にリードを結びつけ、精一杯リードを長くして、 なるべくモモが自由に走れるようにしてやってから、大地は足早に律に近寄った。 「律、」 話しかけようとすると、待て、と制された。 「先に言わなきゃいけないことがある。……大地。……お誕生日おめでとう」 ……!!! 意表を突かれて真っ白になった。 大地がぽかんと口を開けて声を失っていると、律はヴァイオリンをケースに置き、おずお ずと問うた。 「……驚いた、か?」 ……とっさに声が出ない。 「……う、ん。……驚いた」 ようやく大地がそう言うと、律は何故か肩の荷が下りたような顔をした。その顔を見て、 大地の呪縛も解ける。ゆるゆると、それから少しずつ性急に。大地は言葉を紡ぎ始めた。 「…驚いた。…ありがとう、律。祝ってくれてうれしいよ。…でもどうして?昨日帰った んじゃなかったのか?」 もしかして。大地ははたと思いつく。…そんな理由のはずはないとも思いながら。 「途中で誕生日のこと思い出して、帰るのをやめたとか?」 ゆっくりと律は首を横に振った。 「思い出したわけじゃない。…大地の誕生日のことはずっと覚えてた。忘れたりなんかし ない」 いかにも心外だという顔で主張してから、…がくりとうつむいて。 「でも、相談したら、サプライズがいいんじゃないかと言われたから」 「……は?何を、誰に?」 「友達の誕生日に何をしたらいいか、…幼なじみや弟に」 ・・・・・・。 「家族の誕生日ならケーキを食べて終わりだ。幼なじみだって家族みたいなもので、…そ ういうお祝いしかしてこなかった。だから大地の誕生日をどうやって祝えばいいかわから なくて。……ホールケーキはもうこりごりだと思ったし」 その一言に吹き出してから大地は頭をかいた。…それをやらかしたのは自分だ。 「困ってどうしようもなくて、弟に電話したんだ。そしたら幼なじみも声を揃えて、それ はサプライズがいいと。…日にちを忘れたふりして、当日祝われたらびっくりして、きっ とすごくうれしいと言うから、…そういうものかと」 ・・・・・・。 「でもずっと嫌な気持ちだった。…大地に嘘をついているのも嫌だったし、…俺が28日 に帰ると言ったとき、大地がすごくがっかりした顔をしたのも辛くて」 言われて思わず顔の下半分を手で覆ってしまう。 「…っ、俺、そんなに顔に出てた?」 思わず口走ると、律はあっさりああ、と言った。 「…だから早く、少しでも早く、大地にちゃんとおめでとうって、…忘れてない、覚えて たって言いたくて、…昨日は眠れなかった。今朝は今朝で、びっくりするような時間に目 が覚めて」 ため息一つ。 「いくらなんでもこの時間は非常識だろうけど、じゃあ何時なら大地に会いに行ってもい いのかってぐるぐる考えて、考えて考えて」 …早く会いたかった。 律がぽつりと言った言葉に、大地はぐっと喉が詰まった。 「少しでも早く、大地に会いたかった。会って、きちんと言いたかった」 顔を上げ、まっすぐに大地を見る。その静かできれいな瞳。 「お誕生日おめでとう、大地。…今日とこの一年が、大地にとっていいものでありますよ うに」 「…あ、りがとう」 喉がつっかえて、うまくしゃべれない。いつものなめらかさはどこへいったのかと自分で も情けなくなりながら、ぎこちなく大地は礼を言った。 「うれしい、よ。…律」 ふ、と笑うその頬に、思わず大地は手を伸ばした。 「…冷たい」 くすぐったそうに律は笑う。 「いつからここにいた?」 「さあ」 手を取ってみる。ヴァイオリンを弾いていたせいもあるだろうが、びっくりするほど冷え 切っている。 「凍えるよ、律」 「寒いのは慣れてる。それに、大地の手だって冷たい」 言い返した律は、はっと気付いた顔で、ヴァイオリンケースの隣に置かれた紙袋を大地に 押しつけるように差し出した。 「…使ってくれ」 袋に書かれた店の名前を見て思い出す。律が昨日、じっと見つめていたショーウィンドウ。 促されるまま袋を開けると、中から出てきたのは柔らかそうなウールの手袋で。指がかじ かむとうまく弾けないからと、律は大真面目な声でプレゼントの理由を解説する。本当に、 全てにおいて律の基準は音楽なんだなと、くすぐったいような気持ちがふつふつと胸にわ いてくる。 「…ありがとう。…でも、とりあえず律が使うといい。…今は俺の手より律の手の方が凍 えているから」 「そうはいかない。それは大地へのプレゼントだ」 変なところで融通が利かない律に、大地は笑って、じゃあこうしよう、と手袋を片方だけ 差し出した。 「そっちを律が使って、こっちは俺が使う。…で、空いた手は」 つなぐ。 「……」 「駄目?」 つないだ手を見て。大地を見て。渡された手袋を見て、また大地を見て。結局。 しょうがないなと、聞き分けのない幼い兄弟に呆れる兄のような目で律は受け入れ、その 手袋をした方の手で、ブランコを指さす。 「大地。モモがいじけてる」 振り返ると、忘れ去られたことに抗議するかのように、モモがべったりと地面に転がって くんくん鳴いている。 「そうだ、走らせてやらなくちゃ」 「行ってくるといい。…俺もヴァイオリンを片付ける」 「…!えっと、その、…律」 モモの方へ向かいかけた足を止めて、肩から上だけ振り返ってベンチに向かう律を呼び止 める。 「…もしよかったら、散歩の後、うちに来ないか。暖かいし、…いやその、寮だって暖か いだろうけど、その」 これでさよならはさびしい。もう少し一緒にいたい。 言おうとして、勇気が出ない自分がもどかしい。あげく、 「そうさせてもらう。…もう少し、大地と一緒にいたいから」 律に先に言われてしまった…。 「…帰省は?」 「明日。切符も取った。…今度は嘘じゃない」 早口で付け加えるのがおかしくて。思いがけず今日一日律と過ごせることがうれしくて。 …サプライズも悪くない、と思ったりする。 わふ、とモモが吠える。ほら呼んでる、と促す律の声に背を押されて、大地はモモに向か って駆け出した。 その目の前に、ちらりと白いもの。…見上げれば空から、ひらりはらりと花びらのように、 大粒の雪が舞い始める。いつまでも空が暗いと思ったら、重い雪雲に覆われていたせいら しい。掌で受け止めるとじわりと水になる。不思議なほど冷たさを感じない。左手に贈り 物、右手にはまだ君の熱。 大切な人が傍にいれば、雪でさえこんなに暖かいものなのだと、初めて知った誕生日の朝。