あじさい

あじさいの茂みが不自然に揺れている。
「…」
忍人が何気なくその茂みの前に立つと、采女が一人、回廊をぱたぱたと駆けてきた。
「葛城将軍、女王陛下をお見かけになりませんでしたか?」
必死の声に、忍人は冷静に首をかしげる。
「いや」
「…そうですか」
一旦がっかりと肩を落とした彼女は、しかし即座にしゃきっと立ち直って、
「お見かけになったら、すぐに玉座にお戻りくださいとお伝えください。高志の国のお使
者がまもなくお国に向けて出立されます。陛下のお見送りなしには出立できませんので、
狭井君がずっとお捜しです」
「わかった。お見かけすればすぐに伝えよう」
「お願いいたします」
ぺこりと一礼して、彼女はまた走っていってしまった。
「…」
ふう、とため息を一つついて、忍人はあじさいの茂みに背を向け、しかしそちらに伝える
ようにつぶやいた。
「…行ってしまったが。…まだ隠れ続けるのか?」
がさ、と茂みが動いて、金の髪がちらりとのぞく。
「き、…気付いてたんですか?」
「子供の時ならいざ知らず、今の君の背格好でそのあじさいの茂みに隠れきれると思う方
がどうかしている」
ううっ、と千尋が小さく呻いた。
「で、でも忍人さん、私のこと見てないって」
さっき采女にそう伝えたじゃありませんか。本末転倒な抗議に、忍人はまたため息をつい
た。
「あの時点で、君の姿は見えていなかったが、裳裾は茂みからはみだしていた。…俺が茂
みの前に立っていたから、彼女には見えなかったと思うが」
「……っ」
しゅる、と茂みの中に裳裾が引っ込んだ。忍人は今度は額を手で押さえる。
「…今更引っ張って引っ込めても遅い。…いい加減、出てきたらどうだ。狭井君が君を捜
すのも道理だ。使者の見送りは君の仕事の一つだろう。何を逃げている」
「だって、…会わない方がいいんです」
拗ねた声が困ったようにつぶやいた。
「なぜ」
「高志の国からのお婿さんの話、…断っちゃったから」
忍人はまばたきを一つして、肩をすくめた。
「…何だ、それか」
「しっ」
がさ、と音がした。
忍人が振り返ると、真っ赤な顔をした千尋があじさいの茂みから立ち上がっている。
「知ってるんですか!?」
「狭井君が愚痴を言いにいらした」
「忍人さんのところへ!?」
「俺のところではなく師君のところへだ。偶然その場にいたので席を外すと申し上げたら、
いい機会だから聞いていけと、同席する羽目になった」
ええうそいやだひどいうわどうしようと、混乱してさわぐ千尋をまじまじと見て、忍人は
またゆっくりため息をつく。
「いやです、と言ったんだそうだな?」
千尋の繰り言がぴたりとやんだ。
「…」
「もう少し言い様があるだろうにと、狭井君が仰っていたぞ。私を通してくださればいく
らでもうまく言いくるめるのに、何を即決で直接、と」
「だ、…だって、…考えますなんて言ったらその気があると思われそうだし、狭井君に言
ったらきっといいお話ですからってどんどん縁談を進められると思って…。…でも私、見
たことも会ったこともない人と結婚するなんて想像できないし、それで、えっと…」
ああ私何言ってるんだろう、とまた千尋がぐるぐる回り出した。
忍人がふっと笑う。
「…忍人さんー」
「一つ言っておくが、…君は狭井君を誤解している」
「…そうでしょうか」
上目遣いに忍人を見る千尋は、忍人の言葉を信じかねてか唇をとがらせている。
「あれでけっこう、身内には甘い方だ。なんだかんだで柊を使っておられるだろう?…い
かに先の戦いで功績を挙げたとはいえ、一度は国を裏切った身、地方官ならともかくも、
宮を出されても仕方がないくらいのことをしているのにだ」
「……」
「…もちろん、甘いのは柊に対してだけじゃない。…君にも、だ」
ぽすん、と千尋の髪に手を載せる。ふわりと、かすかにほころぶ頬に、彼女は気付いてい
るだろうか。
「狭井君から君に、伝言を預かってきた。高志の国の使者は既にうまくごまかしてある。
が、思う人がいるのならばはっきり教えてほしいそうだ。君の気持ちさえわかれば、意に
染まぬ縁談などいくらでも上手くつぶしてみせると仰っていた。…師君も、いくらでも手
を貸すそうだ」
君の母である先女王陛下をずっと見てきたお二人だ。あの頃は力が足りなくて出来なかっ
たことも、今ならば出来る。…そういう思いも強いだろう。
「しかし、いかに狭井君の口が上手くとも、女王陛下が最後の見送りに出てこなかったと
あっては、高志の国の使者は不満を持ち帰ることになろう。…だから君はどうしても、見
送りには出るべきだ。…手を」
さしのべられた手を取って、そっと茂みから抜け出してきた千尋に、忍人は腕をかざした。
「雨がかかり始めた。急いでこちらへ」
腕で千尋を濡れないようにかばいながら、そっと促す忍人の眼差しの柔らかさに、千尋の
表情も柔らかくなる。
一雨ごとにあじさいが色を変えていくように、我々の感情も少しずつ色合いを変えていく。
君を見るとじわりと熱くなるこの胸の色を、何色と呼べばいいのか、今はまだ名付けよう
がないけれど、きっともうすぐ名前がわかる。
だからあともう少しだけ、名前を付けずにこうしていよう。
長く静かな迷いの雨が、明るい日差しに変わるその日まで。