あかり

その角を曲がると、あの家の灯りが見える。
暖かく、柔らかいその光に、俺は幾度癒されたかしれない。
どんな迷いが俺を襲っても、あの光がある限り、俺は歩いていくことが出来る。

「ただいま」
風早が玄関を開けると、那岐が茶の間から顔を出して
「お帰り」
と言った。そのまま食堂へ入っていく。
「那岐、まだ起きてたのか」
もう日付が変わっている。
「食事当番だからって、俺が帰ってくるのを待っていることはないんだよ。先に休んでて
くれてかまわないのに」
「別に待ってたわけじゃない。テレビ見てただけ」
つまらなそうに言いながらもコンロをつけて料理を温め始めてくれる。その言葉が真実で
ないことを、俺は知ってる。その証拠に、那岐は楽しんでいたはずのテレビを、俺が帰っ
てきたとたんにあっさりと消した。
…無聊を紛らわしていただけなんだろう?
真正面からそう聞くと、照れ屋の那岐が厭そうな顔をすることはわかっている。だから決
して言わない。
味噌汁をつけてくれる那岐に、
「後は俺がやるからいいよ、先に休んで」
と声をかけると、那岐はうん、とうなずいてから、少し妙な顔をした。
「…なんだい?」
俺が少し首をかしげると、整った眉をしかめる。
「変な匂いがする」
どきりとした。が、顔に出していない自信はある。おっとりしたこの笑いの仮面は、おい
それとは外れない。
「…ガスでも漏れてるのかな?それとも生ゴミ?」
穏やかに言うと、なおさらに那岐は眉をしかめた。
「ちがう。あんたから」
きっぱり言って、まっすぐに俺を見る。
「何の匂い?」
俺は微笑んだ。それから少し頬をかいた。
どうしようか。
ごまかすことはできる。だが、このかすかな、本当にかすかなはずの気配に彼が気付くな
ら、この先多くなる一方の同じ事態が起こるたび、ごまかし続けることになる。
それに、いずれにせよ、彼には協力してもらわねばならない。
「…そうだね。…話そうか。…夕食を取りながらでもかまわないかい?」
そのとき、階段をゆっくりと降りてくる足音がした。一瞬俺も那岐も警戒して、すぐに弛
緩する。…大丈夫。千尋じゃない。
忍人が静かに食堂に入ってきた。俺の顔を見て、ふと目をすがめる。
「…その厭な気配がなんなのか、もう那岐には説明したのか」
…君も聡いね。
俺が思わず苦笑すると、那岐は肩をすくめた。
「これから聞くところ。…忍人も聞けば?」
「そうしよう」
うなずいて彼は、すたすたと食堂に入ってくると、那岐の前、俺の隣の席に腰をかけた。
そうしてひたりと俺に視線を据える。そして那岐も、まっすぐに俺を見つめてくる。視線
の圧力に、俺はとりあえず、茶を淹れる許可を得るところから始めた。

「荒魂が出たんだよ」
その言葉に反応したのは、忍人よりも那岐だった。鬼道を使う彼の方が刀で戦う忍人より
も人ならぬ存在に詳しいのは道理だ。そもそもそれはなんだという顔をしている忍人に、
俺は荒魂について説明した。
忍人の眉が寄ったことで、彼が荒魂についておおまかに理解したと判断したのだろう、那
岐が硬い声で口を開いた。
「それは、この世界に元々そういうものが存在したってこと?…それとも」
「この世界にも、かすかながらそういうものは存在すると思うけど、…あいにく、今日俺
が出会ったのはこの世界のものではなさそうだったね」
忍人は俺の言葉を反芻する様子で、両肘を食卓に置き、目線を伏せて片手をあごに当てて
いる。那岐ははっきりと眉を寄せ、俺の言葉を促した。
「…つまり」
「つまり、…俺たちの世界からやってきたもの、…だってこと」
難しい顔をして黙り込んだ那岐の代わりに、忍人が伏せていた目を俺に向けた。
「そんなことが可能なのか」
「…俺たちのような図体の人間が時空を超えることは、普通出来ない。特別な術か、通路
を見定める目が必要になるからね。……けれど、荒魂や、土蜘蛛たちが言う小さき神々と
いうのは、元々俺たちが暮らす世界とは少しずれた世界に存在している。うーん、…何と
言えばいいかな。言ってみれば、体の半分が俺たちの暮らす世界にいて、もう半分は時空
の狭間にいるようなものなんだ。だから、引っ張るものがあれば、時空を飛ぶことは容易
だろうと思う」
忍人が俺の言葉を噛みしめている間に、また那岐が顔を上げた。
「引っ張るものってつまり」
「…まあ、有り体に言ってしまえば、…俺たちだね」
本来この世界にあらざるべき存在。
「……もっと言うなら、……」
俺は一瞬言いよどんだけれど、俺をじっと見る那岐の目と、俺をうかがうような忍人の気
配は、既に俺の答えを予期しているように思えたので、正直に言うことにする。
「…千尋だね」
彼女は神子だ。だから俺たちの誰もが持たない力を、…荒魂を和魂に浄化する力を持って
いる。
荒魂は和魂となることを欲する。だから、和魂となれる可能性を捜して、…神子の気配を
追ってくるのだろう。
「千尋には、浄化が出来る?」
「その気になれば、たぶんね。…もっとも、今はできないだろうけど」
彼女は豊葦原のことを全て忘れている。
「できれば、させたくない」
那岐の目が光った気がした。
「すれば、思い出す?」
答える俺の顔は、たぶん、少し情けない表情だったろうと思う。
「…思い出さなければ、できないよ、たぶん」
「思い出したら…」
そう言いかけたのは忍人だったが、彼は首を一つ振って、いやいい、何でもない、とつぶ
やいた。
「わかったよ」
忍人のそのそぶりを見て見ぬふりで、忍人の一人言を覆い隠すように那岐が言う。
「荒魂が出たら、千尋にはそれと気付かせずに、僕らで追い払わなきゃならない。…そう
いうことだろ?」
那岐の、初夏の木漏れ日のようなきれいな緑色の瞳に、少々剣呑な光が宿った。…邪魔す
るもの全てを排除するかのような、冷たく凝った光。
「…そういうこと」
俺は少し傷ましい思いでその光を見つめる。彼がこの場所に、この家に、この偽の家族に
抱く思いの片鱗を知る。その光は、俺の嘘で固めたこの身を針のように刺したけれど、俺
の体を本当に傷つけはしない。
…傷つけてくれればいいのに、と、…少し思った。
「…わかった。僕はやる。…忍人は」
水を向けられて、忍人は無言で肩をすくめた。
「…君も、…いいのかな」
俺がそっと問うと、静かな表情にほんの少しだけとがったものをひそませて、無論、と彼
は短くつぶやいた。
忍人はずっと、ここにいることに罪悪感を持っていた。最近になってようやくそれが薄れ、
ここで幸せを味わうことを自分に許し始めた矢先だった。荒魂の出現で千尋が豊葦原を思
い出すかもしれないということ、…それにつながるであろう豊葦原への帰還は、彼に何を
思わせたのだろう。言いかけた言葉を、彼は結局飲み込んだ。
俺の視線に気付いてか、忍人は短い自分の返答に、彼らしい理由を付け加えた。
「俺のここでの役務は姫を守ることだ。…姫を害するものが現れるというなら追い払うだ
けのこと」
「…なんか、忍人らしい」
俺が思ったことを、那岐が口に出した。そして、瞳をようやくゆるませて、ふわあ、と大
きなあくびを一つする。
「猛烈眠くなった。僕はもう休むよ」
がたんと椅子を引いて立ち上がる彼を止めたのは、忍人の低い静かな声だった。
「待ってくれ、那岐」
「…?」
那岐の動きが止まる。俺は忍人の方へ顔を向けた。
忍人は少し思い詰めたような顔をしている。
「…いい機会だから、聞いておきたい。…風早。…姫が豊葦原での記憶をなくしているの
は、君がしたことか」
那岐がはっと肩をふるわせる。俺は少しだけ目を見開いた。忍人は俺が答えるまでてこで
も動かないという顔をしている。
「……」
俺は、一呼吸置いて、それから目を伏せて首をゆっくりと横に二回振った。
「俺じゃない」
事実だ。これだけは嘘じゃない。意図して俺がやったことじゃない。だから、まっすぐに
顔を見ることが出来る。忍人の顔も。那岐の顔も。
「…千尋が記憶をなくしたことに、時空移動が関わっているのは確かだろうと思う。そう
いう意味では、豊葦原から無理矢理ここへ連れてきた俺に遠因があるとは思っている。…
でも俺が意図して千尋から記憶を奪ったことはない」
忍人と那岐、二人分の射るような視線を俺は受け止めた。受け止めることが出来た。
「本当だよ」
まっすぐに二人を見て俺が微笑むと、真っ先に視線をそらしたのは那岐だった。…あ、そ
う、とぼそりとつぶやく。
忍人はうなずいた。
「…わかった、信じる」
変なことを聞いてすまなかった、と付け加えて、椅子を引いて立ち上がる。
「俺も休む。…風早も疲れているだろう。…早く休め」
無器用な忍人の、精一杯のいたわりの言葉が心地いい。
「うん、…ありがとう」
おやすみ、と言い置いてまず那岐が。…そして忍人が食堂を出て行く。相前後して階段を
上る足音、部屋の戸が開いて、また閉まる音。
俺は食堂の電灯を見上げた。少しクリームがかった白い光を放つ、豊葦原にはない灯り。
けれど、豊葦原の篝火と同じくらい暖かい光を放つ灯り。
この家に灯りがともる限り、どんな迷いが、どんな後悔が俺を襲っても、たとえ一度は膝
をついたとしても、俺はまた立ち上がり、前を向いて歩いていくことが出来る。
この灯りを消すまいと、思う。
いつかこの灯は消えるのだけれど。それは確かな事実なのだけれど。
この灯りが許されなくなる瞬間が来るまでは、決して消さない。
そして思い出そう。いつかどこかの時空の狭間で。…この暖かい灯のことを。俺が得た、
たった一度きり得た、大切な家族のことを。
俺が消滅する、その瞬間まで。