明易


目が覚めたのは夜明け前だった。
我ながららしくないと思いつつ、柊は与えられた自室を出て船内の回廊を堅庭へと向かう。
不思議なほど人の気配を感じない。夏至近くのこととて夜はしらじらと明けつつあるが、
春秋ならばまだとっぷりと闇に沈んでいる時間だ。一番人々の眠りが深い時間だろう。船
内の者全てがぐっすりと夢の中というのも無理はないと思われた。
だが、堅庭に出てみて、柊はもう一度首をかしげる。

−…皆が夢の中なのは無理ない時間とはいえ、忍人の薫陶あらたかな狗奴の兵まで見張り
にいないというのは少々妙ですね。

しかしその疑問はすぐに晴れた。
「……柊?……ここで何をしている」
兵に見張らせる代わりに、今夜は将軍が夜番だとでもいうのだろうか。堅庭を真ん中まで
進んだところで背後から柊に声をかけてきたのは忍人だった。
「何を、とは?」
なぜだろう、奇妙にうれしくて、柊はうっすらと笑みながら弟弟子を振り返る。
「目が覚めたので、少しそぞろ歩いているだけですが。……それが何か」
「目が覚めた?」
「ええ」
忍人はむっつりと顔をしかめた。
「…今まで起きていた、ではなく?」
「ずいぶんな言われようですね」
柊は苦笑した。
「私とて、休めるときにはきちんと休んでいますよ。たまには早く目が覚めることもあり
ます。…この季節は、特にね」
「……?」
忍人は首をかしげた。柊は空を振り仰ぐ。東の空に、かすかに、色が差し始めている。
「…あけやす(明易)、と言うではありませんか。…夜が短く、夜明けが早い。光も鋭い。
…夢も短く断ち切られようというものです」
その言葉で忍人の瞳がまっすぐ柊に向けられた。
「…何か、目覚めを惜しむような夢を?」
「…おや。…君が私の夢を気にかけてくれるとは。…珍しいこともあるものだ。今日は嵐
になるかもしれませんね」
「…柊」
とたん、忍人が声を尖らせたので、すみません、と柊は短く謝った。
「せっかく気にかけてもらったのに、口幅ったいことですが、……あまりいい夢を見てい
たわけではありません。…覚めて良かった」
「……」
困惑からか、沈黙して何も言わない忍人に、柊は努めて明るい声を出した。
「…ねえ、忍人。…あなたは、つらく恐ろしい夢を見るのと、良い夢を見て目が覚めて、
それが夢であったことにがっかりするのと、……どちらが心沈みますか?」
忍人は困惑露わだ。
「…なぜ、良い夢を見てがっかりしなければならない。…過去のことであれば、思い出せ
たことを幸せに思えばいいし、未来のことであれば正夢になるよう努力すればいいではな
いか」
「……っ」
忍人の言葉に柊は一瞬絶句し、ついで鼻白む風情をちらりと見せ、…最終的に、諦めたよ
うな顔で笑った。
「君は、……そんな人間でしたか?」
「…自分の言葉がひどく上滑りしたものであることは、俺自身が一番よくわかっている」
忍人はなぜか、苦虫を噛み潰したような顔で言った。
「かつての俺なら、決してこんなことは言わなかった。…だが柊、俺もいつまでも、師君
の屋敷でがむしゃらに学ぶ子供ではない。ままならぬことも理不尽も、夜の闇のような絶
望も、味わって背負ってここにいる。……だから言うんだ。…膝をついたら、後戻りした
ら、負けだ。…俺は、負けるわけにはいかない」
「……忍人」
「絶望が夜の闇ならば、明易は救いだ。明けぬ夜も、覚めぬ夢もない。…そう、信じられ
る」
「……」
「……柊」
忍人はなぜかふと、まっすぐ柊を見て名を呼んだ。
「……終わらぬ苦しみも、また」
彼が言い終えるか言い終えぬかの内に、目を射るようなまばゆく鋭い光が堅庭の闇を分け
た。その光に目をくらまされ、忍人の姿が一瞬見えなくなる。とっさに腕で光から目を庇
ってから、柊は慌てて手を伸ばした。
「……忍人!!」


…つかんだものは、虚空だった。


がばりと起き上がった部屋には、ただ自分一人。優雅なしつらいは天鳥船のそれではなく、
橿原宮の装飾で。
…そして、思い出す。弟弟子はあの日、アカシヤに奪われてもう戻らないのだと。絶望の
中に、自分一人こうして時を経て。
「……」
空の眼窩がひどくうずく。眼帯の上から手で押さえて、柊はくっと喉を鳴らして笑った。

−…夢の中でさえ、君は私にお説教だ。……全く。

板戸の隙間から、柊の目を覚ました鋭い朝の光が差し込んできている。夢の中の忍人の言
葉を思い出し、苦い笑みが唇を震わせる。

『絶望が夜の闇なら、明易は救いだ。明けぬ夜も、覚めぬ夢もない』

「わかりましたよ、忍人。…歩けと言うのですね、私に」
膝をつくなと。後ろを向くなと。
「……」
苦い息をいっぱいいっぱいに腹から吐ききって、…柊は、すう、と息を吸った。朝の清冽
な空気が胸を満たす。ちりりと鈴が鳴るような音がして。……愛しい彼の最後の言葉が、
柊の耳によみがえる。

『……終わらぬ苦しみも、……また』