悪夢

忍人の第一印象は、「大丈夫か?こいつ」だった。最初はただ無愛想な奴かと思ったのだ
が、すぐにそれはちがうと思い直した。彼の顔には表情がなく、瞳もぼんやりと、どこに
焦点が合っているのかわからない。那岐を見ても機械的に「よろしく」とつぶやいただけ
であとは黙りこくる。

……正直、こんな奴とやっていけるのか?というのが本音だった。

だが、風早は僕らが右も左もわからないこの異世界で全てを取り仕切っていたし、千尋は
豊葦原のことを全て忘れてしまって、まるで赤ん坊のように風早に毎日ぴたりとくっつい
ている。必然的に、僕は忍人と共に過ごすことが多かった。

部屋も二人で一つだ。二段ベッドを見つけたとき、僕がさっさと下の段に転がると、忍人
は何も言わずに、はしごの2段目か3段目に片足をかけ、そのままひらりと上の段のベッ
ドに上がった。その仕草は猫か何かのようにしなやかで、僕ははっとした。…本来の彼は
鍛えられたしなやかな筋肉を持つ武人で、今のようにぼんやりした人間ではないのだと、
…その片鱗に気付かされた瞬間だった。
同じベッドの上と下で寝ているけれど、僕は忍人の寝ている気配を感じたことがない。寝
るときはだいたい同じ時間に部屋に入るのだけれど、割とすぐに眠りに入る僕と違って、
彼はしばらくの間ただ身を横たえているだけなのだ。朝も僕が目を覚ます頃には彼はとっ
くに起きていて(もしかしたら一晩中まんじりともしていないのかもしれない)、でもそ
の後どうしたらいいのかわからない、という風に、じっと寝台の上で体を横たえているよ
うなのだ。僕がもそもそ起き出すと、彼もひらりと降りてきて身支度を始める、そんな日
が一週間ほども続いたろうか。

ある朝、僕が目覚めると、また上の段で忍人がじっとただ身を横たえている気配がした。
確実に目は覚めているようだ。いつものように起き出しかけて、…僕は、起き出す代わり
に、足で自分の上のベッドの板をとん、と蹴ってみた。
音はさほどではなかったのだが、結構板には響いた。だからだろう、忍人が、何事か、と
いう顔をして、はしごも使わず、ふわりと獣のように上のベッドから飛び降りてきた。
「…?」
「起きたよ」
「………は?」
「起きたよ、って言ったんだ。…忍人はいつも、僕が起きる気配を待ってるみたいだった
から」
傍らに膝をついて、不安げに僕をのぞき込んでいた忍人の表情が不意にゆるんだ。…そし
て、それは絶対反則だろう、みたいな、…どきっとするほど優しい笑顔を一瞬ふわりと見
せて、…彼は片手で顔を覆った。
「……そうか」
手が外れる。また忍人が僕を見る。その顔を見て、僕ははっとなった。
忍人の瞳の焦点が、僕に合っている。
一瞬のあの笑顔は消えていて、彼はいつもの無表情だったけれど、でも今までの無表情と
は明らかに違う顔だ。はっきりと意志を持った人の顔。それまでの彼とは別人とも思える
ほどの印象の違いだ。
忍人はすらりと立ち上がって、何事もなかったかのようにいつも通り身支度を始める。僕
が動かないでいると振り返って、
「起きたんだろう?…下に行こう」
そう静かに促す。……まるで今までずっとそうしていたかのような、さりげないそぶりで。
驚きを隠しながら、僕もベッドから抜け出した。
そしてその日初めて僕は思ったんだ。
ああ、大丈夫。こいつとならやっていけると。
…彼の何がわかったわけでもない。それはただの僕の直感に過ぎなかったけれど。
大丈夫。彼となら、共に肩を並べて歩いていけると、…何の根拠もなく、その朝僕はそう
思った。
その日からしばらく、起きた僕がぽんとベッドの板を蹴るのが習慣のようになった。その
うちに彼は、鍛錬と称して毎朝早朝のランニングに出るようになったので、起きたときに
蹴ることはなくなった。
けれど、…まあそんなことはほとんどないのだけれど、夜布団に入ってあまり寝付けない
ときに、そっと僕はベッドの板を蹴ってみることがある。…すると、忍人の手がベッドの
側板をとんとんと手の甲でたたく。
起きてる?、起きてるよ、と無言で会話する。二人にだけ通じているというその不思議な
一体感は、いつも僕の心をじんわりと温かくする。

不思議な家族ごっこが始まって一月ほども過ぎた頃、…それは起こった。

僕は闇の中にいた。
闇の中、揺れていた。
目は開いているはずなのに何も見えない。身動きも出来ない。腕や肩、頭、足のつま先、
全てが何か固いものに触れている。
僕は、僕の体にぴたりと合う大きさの容れ物にいれられているようなのだ。

………棺。

不意にその言葉が脳裏に浮かぶ。
僕は息をのんだ。
もしや、僕は棺に閉じこめられて、地中に埋められているのではないだろうか。目を開い
ても何も見えないのは、ここが蓋をされた棺の中だからではないだろうか?声を出して叫
んでも誰にも届かないような場所なのでは?
…そう思って耳を澄ますと。
ちゃぷり。
音がした。
揺れる水の音のような。
全く動かなかった体が、唐突に揺れ始める。自分の意志ではない。自分をいれている容れ
物が揺れているのだ。
たぷり、ちゃぷり。
ああそうか。僕は水にたゆたっているのか。
たぷり、ちゃぷり。
僕は容れ物にいれられたまま流れていく。……流れて、揺られて。………どこへ?
ちゃぷり。
ちゃぷちゃぷ。
ちゃぷちゃぷちゃぷ、ざあざあ、ごうごう。
水の音が急速に激しくなっていく。僕は川に出たようだ。それもかなり流れの早い川。音
と体に感じる振動はどんどん激しくなっていく。流れがどんどん早くなっていく。
このまま早くなりつづけたらどうなるんだろう。
………もしや?

………ふっ。と。…落ちる感触がした。

僕は声にならない声で悲鳴を上げた。

「………那岐!」
誰かの呼ぶ声で、はっ、と僕は目を開けた。
そこは何も見えない闇ではなかった。闇は闇だが、ぼんやりとものの形を感じる。目が慣
れてくると、それは、自分を心配そうにのぞき込む忍人の顔だとわかった。
「…おし、ひと?」
名を呼ぶと、彼はかすかに息を吐いた。
「…よかった」
一言だけ言ってすっと立ち上がり、そのまま部屋の戸を開けて出て行ってしまう。階段を
下りていく身軽な足音を聞きながら、僕はひたすら、乾いて張り付く喉に唾液を送り込む
努力をした。
ほどなく忍人が帰ってくる。彼は水をたたえたコップを無言で僕に差し出した。
「……」
無言のまま僕も受け取り、ベッドから少し身を起こしてコップをぐいとあおった。
冷たい水に少しむせる。
忍人は少し眉を寄せたが、大丈夫か、などと月並みなことは言わず、僕からコップを取り
上げて、もっといるか、と聞いてきた。
「…いい。ありがとう」
なんとかなめらかになった喉でそう告げると、うなずいて、コップを勉強机において戻っ
てきた。そのまま自分のベッドに戻るのかと思っていると、彼は何故か僕のベッドの傍ら
の床にぺたりと座り込んだ。
「…忍人?」
「那岐が眠るまでここにいる」
「え?」
冷たい水をあおった名残で、ごほ、と僕はまたむせた。忍人は背中をとん、と軽くなでて
くれてぽつりと言った。
「…うなされていた」
「…やな夢を見ただけ。…大丈夫だよ」
「ああ、…迷惑かもしれないが、…でも那岐が眠るのを見届けたい」
まっすぐな目が僕を見た。
「俺が悪い夢を見ていたとき、君が助けてくれたから。…俺も、君に何かしたいんだ」
「………?」
心当たりがない。言ったとおり、僕は忍人の寝ている気配を感じたことなどない。なにし
ろ、僕は忍人より早く寝て、忍人より遅く起きているんだから。結果として、うなされる
忍人を見たことなどないし、もちろん、助けたこともない。
僕の不思議そうな顔に、忍人は少し困った様子で、しばらく僕を見つめ返していたが、や
がて意を決したようにぽつりぽつりと話し出した。
「…俺はずっと、悪夢の中にいた」
大切な兄弟子たちが行方不明になり、信頼していた相手に裏切られ、国が滅びるところに
居合わせて。それでも自分の部下たちだけはなんとしても守らねばと思っていたところに
突然風早が現れて。
「…気付いたら、こちらの世界にいた」
何が起こったのかわからなかった。こちらの世界は自分の知る豊葦原とはまるで違ってい
て、血のにおいも戦乱の音もない。あまりに穏やかすぎて、逆に怖かった。
なぜこんな世界に俺はいるのか。
俺の部下たちは今頃どうしているのか。
俺はこの世界で何をすればいいのか。
「混乱して、どんな考えもまとまらなかった。言われるがままに、起きて、一日をぼんや
りと過ごして、また眠る。…眠ると言っても、本当に眠っている訳じゃない。ただ体を横
たえてぼんやりしていると朝が来る。…そんな感じだった」
……僕は、なんとなく、ああやっぱりそうだったのかと思った。初めて会った頃の彼はや
っぱり、まともに寝てなどいなかったのだと。
「君が、あの日、…蹴ってくれるまでは」
そうかそうか、と思っていたから、次の忍人の台詞を聞き逃しかけた。
「…え?」
思わず聞き返すと、忍人はあのときの、あの反則笑顔で笑っていた。
…心臓がはねる。
「覚えているか?…君はあの日突然、下からぽんとベッドを蹴った」
何事かと思って下に降りたら、君は何でもなさそうな顔をして起きたよ、と言った。
「たぶんそれまでの俺は、混乱した幽霊のようだったと思う。…だがそんな俺に、君はご
く当たり前に接してくれた。あのときはっとそれに気付いて、そうしたら、悪い夢から覚
めたかのように視界が開けたんだ」
この穏やかな世界の優しい朝と、共に過ごすことを許された人たちがいるということに、
その時初めて気がついた。
「………僕はベッドを蹴っただけだよ」
「それでも。…俺はそれに救われた」
あの日からようやく、この世界で普通に息が出来るようになった。
「まだ風早は俺を腫れ物に触るように扱うし、姫には怯えられているようだが、…でも君
が、普通に俺と接してくれるから」
俺はここで息が出来るんだ。
「…大げさだよ、忍人」
なんだか耳が熱い。たいしたことをしたわけじゃない。むしろ、ただの悪ふざけだったの
に。
忍人はそんな僕を見て、…またあの反則笑顔を見せる。心臓に悪いから、ほんとやめてほ
しい。おまけに。
「君は、自分の優しさに自分で気付いていない」
その顔でとんでもないたらしの台詞を言う。
もうとても直視できなくて、僕はがばりと布団をかぶった。
「…那岐?」
「もう寝るから!ついててくれなくて大丈夫だから!」
てか、そばにいられると、心臓に悪くて眠れないから。まじで。
忍人が困ったような顔をしているのがわかる。けれど、僕がもう大丈夫そうだということ
も伝わったようで、かすかに苦笑する気配の後、ゆるゆると彼はベッドの上段に戻った。
そのベッドの板を、僕はまたぽんと蹴る。
…ややあって、忍人がとんとんと側板をたたいてきた。
「…ねえ。…僕に何かしたい、って…言ったよね」
「ああ」
「じゃあさ」
言うのがひどく恥ずかしくてずいぶんためらったのだけれど。
「…友達になろうよ」
「………?」
上の段で、忍人の頭がかすかに動いたのがわかる。そば殻の枕がざり、と小さな音を立て
た。
「わかってる。今既に僕らは疑似家族というか、仲間みたいなものだ。…仲間と友達と、
どう違うのかって聞かれたら、僕も答えにくいんだけれど」
言って、那岐は本気で考え込んだ。
仲間と友達と、どう違うのかな。
「那岐の言いたいことは、…少しわかる気がする」
助け船は思いがけず、忍人の方から出た。
「…俺は武人だからたとえが悪いが、…真から心をさらけ出していなくとも、仲間として
同じ敵と戦うことは出来る。……だが友は違うだろう」
心を許しあって、対等の立場で、お互いを尊重できる。…それが友だと思う。
やわらかくひらかれた言葉がすとんと那岐の心に落ちる。
「…うん、そうだ。…お互いに対等で、心を許しあえる仲」
僕は今まで、庇護されるばかりだった。
捨て子だった僕を拾ってくれた師匠と二人きりの生活。師匠が亡くなってからは、なにく
れとなく風早が訪ねてくれたけれど、彼もまた僕にとっては庇護者だった。
「対等な立場といえる人は誰もいなかった。…だから忍人とは、友達になりたい。……忍
人が僕の初めての友達だっていうのは、なんだか少しうれしいなって、…そう思った」
……それはたぶん、僕が忍人のことを気に入ったから。那岐は心の中でだけそう付け加え
た。このことはとても本人には言えない。
自分が付け加えた考えに自分で恥ずかしくなって、那岐は布団をがばりと頭からかぶる。
ちょうどそのとき、小さな声で忍人がつぶやいた。
「……俺も、…初めての友達が那岐なのは、なんとなくうれしい」
「…?」
その言葉に、那岐はまた布団から顔を出した。
「…忍人は、今まで友達くらいいただろう?」
そもそも風早だって友達なんじゃないのか。
素直にそう疑問を呈すると、またざりざり、と枕が音を立てた。首を横に振ったのだろう。
「同じ門下で学ぶ仲間はいたし、風早たち兄弟子にはとてもかわいがってもらったが、彼
らと対等の立場の友達、というわけではなかったように思う。やはり一日の長がある分、
肩を並べるというよりは、彼らはいつも俺の先を歩いていて。俺は追いつきたくて躍起に
なるばかりだった。…だから、君が許してくれるなら、俺にも、初めての友達は君だ、と
言わせてほしい」
じわ、と心が温かくなったけれど、那岐はわざと唇をとがらせて、文句をつけた。
「…じゃあ、…そういう言い方、やめてよ」
「……?」
「友達だろ。…許す、とか、そういうのなし」
「……ああ、そうだな」
忍人が笑った。
「…ありがとう、那岐。…お休み」
「おやすみ」
那岐は目を閉じた。…上段でも、忍人が体の力を抜いた気配がする。……ややあって、静
かな寝息が規則正しく刻まれはじめた。
那岐は閉じていた目を小さく見開いた。
……初めて聞いた。
ひどく幸せな気持ちになって、…その柔らかな音を聞きながら、那岐もゆっくりと眠りの
淵に落ちていった。
……今日はもう、悪い夢は見ない。きっと。