allegria ,lievemente 一曲を弾ききって、肩の力を抜いたところで、 「『フィレンツェの思い出』ですね」 声をかけられて、大地は飛び上がるほど驚いた。 慌てて振り返ると、こちらは大地の驚きぶりに驚かされた様子で、かなでが口元に手を当 てて目を見開いていた。大地と目が合うと、ぴょこんと頭を下げる。 「ごめんなさい、いきなり声をかけて。…驚かせちゃいましたね」 「…いや、俺もちょっと驚きすぎたから」 大地は苦笑する。 「でも、どうして?…今日の集合は、会場に直接だっただろう?」 「大地先輩こそ、学校に寄るより直接会場入りする方が、道順としては近いんじゃないで すか?」 小首をかしげられ、参った、と首をすくめる。 「…朝早くに目が覚めて、落ち着かなくってね。…弾けば気がすむかと、…そう思った」 「私もです。早く目が覚めちゃって。…昨日の晩が嘘みたいないい天気だったから、なん だかすごく弾きたくなっちゃって。……でも、あんまり朝が早いと、寮の周辺で弾くのは 迷惑なんですよね。…なので、ここへ」 夏休み中通い続けた音楽室を、かなではぐるりと見回した。天井、壁、窓、ピアノ。…… その視線がゆっくりと、大地の前で止まる。 「…ところで、大地先輩」 おずおずと、かなでは問うた。 「…その、…先刻の演奏」 大地は首をすくめた。 「…わかってる。…あれじゃ全く、皆の曲想と合わないな。…昨晩譜を読んでいたらはっ と思いついて、弾いてみたくなったんだ」 「いえ、あの、否定しているわけじゃないんです。…むしろその逆っていうか」 かなでは指先を唇に当て、必死で言葉を探している様子だ。 「私は、『フィレンツェの思い出』は、切なく哀愁を漂わせて弾かなきゃ、ってずっと思 いこんでました。アンサンブルの曲想のすりあわせの時もそれで問題なかったし。…でも、 今の大地先輩の演奏は快活で、軽やかで、……なのにちっとも違和感がなくて。…ああ、 こういうのもありだって、すごくはっとしました。こっちの方が、私は好きだって。…… あの、…どうして急に?」 かなでの黒い丸い瞳は、やっぱりモモに似ている、と大地は思った。素直でまっすぐで、 …嘘を許さない目だ。 大地は、ふう、と息をついて笑った。 「……この曲を書き始めたとき、チャイコフスキーはまさにそのフィレンツェにいたんだ ってことを、思い出したんだ。暗く重い冬の大地での生活が当たり前だった彼が、明るい 光にあふれた南の国で書き始めた曲なら、もっと明るくて、軽やかで、…そこにいられる 幸せと喜びに満ちた演奏でもいいんじゃないかって、…そう思った。……思い出の全てが 寂寞に変わるとは思えない」 ふと、かなでが困った顔をした。 「せきばくって、…何ですか?」 「…ああ、ごめん。…気取った言い方をしちゃったね。…要するに、寂しいってことだよ」 その言葉を聞いたかなでは、不思議な色の瞳で大地を見た。 「…つまり大地先輩は、寂しいって言いたくないんですね?」 まっすぐに指摘されて、ぐっと詰まる。動揺を、大地は苦笑でごまかした。 「…ばれちゃったな。…そうだよ。…俺は、この夏を思い出にしてしまうのが惜しいんだ。 充実していて、本当に楽しい。……楽しかった、と、過去形で表現することすら、辛いく らいだ」 ゆっくりとくりかえし、かなでがうなずく。 「よくわかります。…大地先輩のヴィオラが、そう言っていますから」 「……俺の、…ヴィオラが?」 はい、とかなではもう一度うなずいた。 「さわやかで、快活で、軽やかで。……なのに、その底に忍び込む寂しさがしっかり感じ られる。明るく振る舞おう、今を楽しもうとすればするほど、未来の切ない予感が迫って くる。…『フィレンツェの思い出』をかなでるなら、まさにその音がふさわしいんじゃな いかって、私、思います」 「…ずいぶん、買いかぶってくれたね」 大地が苦笑すると、 「買いかぶりじゃありません」 かなでは首を振った。そしておもむろにヴァイオリンを準備し始める。 「……ひなちゃん?」 「一緒に弾かせてください。私もその解釈で弾いてみたいんです」 「て、……ちょっと待った、コンクールは今日だよ。今更曲想をがらりと変えられるわけ がない。…そんなことをしたら…」 「曲想を、変える?」 「何を今更言い出すんです、榊先輩!!」 二つの声がハモった。うかうかとまた扉から意識がそれていた大地とかなでは、肩をびく つかせて振り返る。 戸口から現れたのは律、ついでハルだ。 「律、ハル」 「律くん、…ハルくんも、直接会場に行かなかったんだ」 「そんなことは今どうでもいいんです。…それより榊先輩、これから曲想を変えるって本 気ですか!?」 「いや、だからそれは…」 即座に噛み付いてくるハルに、、大地は抗弁しようとしたが、ハルは聞く耳もたないとい う顔をしている。 「響也はどうしたの?律くんはどうしてここに?」 一方、かなでに問われる律の方は驚きも苛立ちもみせてはいない。…というよりはむしろ、 興味深そうな様子でうっすら笑みを浮かべている。 「響也もそのうちここに来るだろう。まだ準備に時間がかかりそうだったから、置いてき た。少しでも弾く時間が欲しかったんだ。…水嶋もそうだろう?」 「…ええ、まあ」 律に声をかけられるといつまでも大地に噛み付いてもいられないらしい。ハルは不承不承 という顔ながら、律の方に顔を向けた。 「小日向がいないようだったからここかと思ったが、大地までいるとはな。…いや、そん んなことより先刻の話だ。…曲想が何だって?…どっちの?」 「部長まで!」 とたんハルがまた声を高くしたが、律はそれを片手で制した。 「もしそれが『フィレンツェの思い出』の方なら、…変える価値はある」 「……!」 ひゅっと短く息を吸う大地に、律は真面目にうなずいた。 「今のままで充分出来上がっているとは思う。…だが、ずっと、何か物足りないと思って いた。何かが足りない、もっと何か変えられるはずだと」 そして彼も、ヴァイオリンをケースから出し始めた。 「ちょうど『フィレンツェの思い出』のプレイヤーは四人ともそろっている。曲想を説明 してくれ、大地。…弾いて、聞かせてくれてもいい」 「……っ」 応援すると言いたげに、かなでが大地の二の腕にそっと手を載せた。…その温もりに背を 押されるように、大地はつばを一つ呑み込んでヴィオラを取り上げる。 「……わかった。…じゃあ、律とハルの耳で判断してくれ。…俺は、…『フィレンツェの 思い出』をこう弾きたい」 ファイナルの前半の演奏が終わった。ふう、と客席で身体を椅子に沈め、ため息をついた のは千秋だ。 「ヴァイオリン三挺のクインテットは珍しいんじゃないか?演奏も良かったし、ちょっと はっとさせられたな。観客の反応もいい」 「……」 「…蓬生?」 「……あ」 「先刻から何をずっと考え込んでる」 「いや、…解せんなあ、思て」 千秋は眉を上げた。 「…何が」 「…千秋の言うとおり、五人編成の『威風堂々』はインパクトあった。演奏も上出来や。 せやからこそ、わからん。…何でこれを先に持ってきたんや」 「…」 かすかに千秋が瞳をすがめたのは、なるほど?という意思表示らしかった。力を得て、蓬 生は言葉を続ける。 「演奏順が後攻なんや。最初の曲で衝撃を与えようとするより、後の曲で強い印象を与え る方が、審査員の心情を左右しやすい。……せやのに、後に残したんは『フィレンツェの 思い出』や。きれいな曲やけど、…インパクトには欠けるんとちがうか」 ゆるゆると、千秋の口角が上がった。 「…なぜ、聞きもしないでインパクトに欠けると言い切れる」 「…聞かんでもわかるやろ。今の『威風堂々』はクインテットやったけど、『フィレンツ ェの思い出』は普通の弦楽四重奏や。それに曲調もマイナーで、最後を盛り上げるとは言 いにくい」 それまで黙っていた芹沢がふと、口を挟んだ。 「昨日話したときは、『フィレンツェの思い出』、『威風堂々』、の順番で演奏すると言っ ていましたよ」 千秋が芹沢を振り返った。 「誰が話していたんだ。…如月弟か」 「ええ」 「…なら、そのときと今とで何かが変わったわけだ。……何が、…かはわからんが」 「…」 どきりと胸が震えた。 たった一晩。…一晩で何があった? 「……」 「何だ蓬生。…何か言いたそうだな」 「……別に。…一晩で何があったんやろって思っただけや」 「さあな。…だがしかし、星奏のアンサンブルの中心になるのは如月律だ。最終判断を下 すのはあいつだろうし、如月は見た目通りに音にはひどくシビアで、話して受ける印象よ りははるかにしたたかな男だ。それに、音楽に関しては天性の直感を持ってる。勝ち目の ない選曲はしないし、勝ち目のない賭にも出ない。……ともあれ、次の演奏を聴かせても らわないとな」 「……せやんな」 ぽつり、つぶやいて、蓬生は人がいなくなった舞台を食い入るように見つめた。 「しかし、よくそんな、当日の朝に曲想を変えようなんて思いつくよな」 楽屋でしみじみと嘆息するのは響也だ。大地は思わずごめんと首をすくめた。本当は、 『フィレンツェの思い出』のアンサンブルに参加しない響也には、迷惑をかけていないは ずなのだが、 「おまけに兄貴はいきなり曲順まで変えるし」 と続けられると、迷惑かけました、と言わざるを得ない。アンサンブルに参加しなくても、 曲順の変更で、コンディションを整える時間の余裕が違ってきただろうからだ。 しかし、本来責められているはずの律の方は、弟の指摘などどこ吹く風という顔をしてい る。 「一般の観客にはアピールしないかもしれない。だが、審査員には、予想通りの『威風堂 々』より、予想を外した『フィレンツェの思い出』の方がインパクトを与えられると思っ た」 「…もう一度、合わせてみないで大丈夫でしょうか」 おずおずと言ったのはハルだ。かなでも少し心配そうにハルと律を見比べる。だが、律は 穏やかに笑った。 「大丈夫だ、問題ない。…急な曲想の変更で、特に水嶋にとってはあまり得意じゃないタ ッチだろうに、朝の段階で既によく弾きこなしていたと思う。……従弟との思い出でも思 い出したか?」 軽やかで快活、というイメージがそのまま当てはまる華やかな存在を持ち出されたハルは、 しかし、ひどく嫌そうな顔をした。 「新のことなんか思い出したら、いらいらして上手く弾けません」 かなでと大地は同時に吹き出しそうになって、慌てて手で口を押さえた。 「思い出したのは、夏祭りのことです。…華やかで、明るくて。…けれどどこかしら、寂 しさがつきまとう」 「花火もそうだよね」 かなでが笑顔でつけたした。 「きれいで、わくわくして。…でも見終わった後でがらんとした空や、静かになった空気 に気付くと、なんだかたまらなくなるの」 「…そう考えると、夏のイベントって、騒いで、その後すっと心に隙間が空くような、… そんなのが多いよな」 腕組みして真顔でうなずく響也をおもしろそうにちらりと見やってから、律も真面目な顔 になった。 「そうだな。…だから、この夏の最後がこの『フィレンツェの思い出』で終わるのは、む しろふさわしいんじゃないかと俺は思う。……ただ、寂しがるだけで終わりにするのはよ くない。次につなげる何かに変える。それもテーマだ、忘れるな」 言って、律は、ぽんと大地の背を叩いた。 ……どきりとした。 律は大地と蓬生の関係など何も知らないはずだ。それなのに、投げかけられた言葉は意味 ありげで、仕草がまるで大地のスイッチを押そうとするかのようで。 思わず振り返って瞳をのぞき込むと、律はいつもの冷静な、毅然とした顔でこう告げた。 「…時間だ。…行こう」 星奏学院オーケストラ部のアンサンブルがかなでる『フィレンツェの思い出』の、最後の 一音がホールの空気に溶けるように消えた。 巨大な空間が一瞬凪の海のように静まりかえり、次の瞬間、どよめきと歓声とわれんばか りの拍手に包まれる。 演奏が始まってからずっと、やや身を乗り出し気味に演奏を聴いていた東金は、ようやく 椅子に身を沈め、ぱんぱんぱんとよく響く音で拍手してから、ちらりと蓬生を振り返った。 「…感想は?」 「…何や。…終わった早々」 「見ろよ、この客席の反応。…トロフィーを受け取るのは間違いなくあいつらだ。ほめ言 葉を用意しておいてやれよ」 蓬生は敢えて平静を装って、ふん、と鼻を鳴らした。かまわずに東金は続ける。 「やられたな。…快活で、軽やかで、…それでいて、寂しさがすきまからそっと忍び込ん でくるような『フィレンツェの思い出』か。南国の思い出にしちゃ寂しいメロディに、う まい曲想をつけたな。意表を突かれた。それに、演奏も良かった。……たきつけてあおっ た甲斐があったな、蓬生」 蓬生は嫌そうに少し目をすがめて東金を見た。 「…何の話」 「まだしらばっくれるのか」 東金の苦笑は子供をあやすような色があった。 「昨夜、榊と会ったんだろう」 「……」 昨夜出かけるとき、誰にも言わずに出かけた。東金にも見られていないはずだった。…別 に隠すことではないが、しかし。 「昨日の晩、風呂の後で今日のことを相談しようと思って部屋に行ったら、お前はいなか った」 東金はさらりとタネを明かした。 「あの嵐の中、お前が外に出るんだ。相当の用事があるはずだ。…たとえば、密会、とか な」 「やらしい言い方、しぃなや。…そんなんやない。…ただ、練習につきおうて」 「そう、つきあって、けしかけた、…だろう?」 「………千秋」 「…あの曲想は榊だ。…ヴィオラの音が鍵になってた。二〜三日前に、俺もアンサンブル の練習を耳にしている。そのときは、あの曲は、今まで演奏され尽くしたとおりの、切な く寂寞にみちた、…ただそれだけの曲だったはずなんだ」 「……」 蓬生はとうとう観念し、…ふう、と息を吐いた。 「…責任は取るんだろうな?」 「何の責任や」 「つながり続ける責任」 東金は既に蓬生を見ていない。どこか楽しそうに、前を見ている。反して、蓬生は少し唇 を尖らせた。 「…それは、榊くんが俺にどうしたいか次第や」 「榊はお前に答えを出したんだと思うが?」 「……」 蓬生は顔を上げ、ステージを見た。…天音と星奏のアンサンブルメンバーが、再び舞台上 に現れてライトを浴びて立っている。律の傍らで一歩引き気味に立っている榊は、吹っ切 れた穏やかな顔でいる。 …昨夜の惑乱ぶりが嘘のようだ。蓬生はじわり、頬をゆるめた。 「……俺の方はもとから、覚悟はできとう」 はは、と東金は笑った。 「神戸と横浜は、遠いぜ」 「千秋が言うん」 今度笑うのは蓬生だ。 「小日向ちゃんのためなら、そんな距離ものともせん。…そういう顔してるやんか」 「…勝手に人の顔を読むな」 「先に俺の顔を読んだん、千秋やろ」 「……」 「……」 「……。まあいい。…ああほら、やっぱり」 指さす先で、トロフィーが律の手に渡される。 「…それじゃ、せいぜい豪勢な祝賀パーティーでも企画してやるとするか」 「…手伝おか」 蓬生を見返って、東金はにやりと笑う。 「もちろん、馬車馬のように働いてもらうぜ。…その代わり、準備をぬかりなく整えたら、 パーティーの途中でどっかに消えても、何も言わずにおいてやる」 「…それはどうも」 消えること前提かい、と小さく笑ってから。 「ほな、ちゃっちゃと始めよか。……芹沢。星奏の子らに声かけしといて。こっちの準備 が整ったらまた連絡する」 「はい、わかりました」 言い置いて、まだ興奮冷めやらぬ客席を二人で立ち、ホールを出る。 重い防音の扉を閉めて、静まりかえったロビーに出ても、自分の心に繰り返し繰り返し、 大地のヴィオラの、深く、寂しく、それでいて軽やかに甘美なフレーズがよみがえる。く すぐられるような感覚がたまらなくて、蓬生はそっと胸を押さえた。