Aの恋人


ちょっと休もか、と声をかけられて、大地はヴィオラを下ろした。…ペットボトルから水
を飲んで息をついていると、蓬生は手持ちぶさたなのか、ふと練習室のピアノに向かって
何かを弾き始めた。
「…ピアノも弾けるんだ?」
大地はグランドピアノに頬杖をついた。
「…子供の頃にちょっとかじっただけやけどな」
指慣らしか、幾度かスケールを繰り返す蓬生は、鍵盤だけを見て大地を見ないまま、ゆっ
くりと穏やかな曲を弾き始めた。静かに優しいメロディは、あまりピアノには縁のない大
地にも聞き覚えのある曲だった。
「…有名な曲?」
「何で?」
「昔聴いたことがあるような気がする。近所で誰かが弾いてたような」
「そうかもしれんね。ピアノ弾いたことがある子やったら、一回くらいはさらったことあ
ると思うわ」
変わらず大地を見ないまま、蓬生は弾き続けている。…その長い指が不意にたたきつける
ような和音を響かせた。それからリズムが早くなり、曲想が変わって。
…大地はふと、首をかしげた。
「……でも、…昔聴いた曲とは少し印象が違う」
「……へえ?」
うつむいて鍵盤に目を落としていた蓬生が、ピアノを弾き始めてから初めて、横顔でちら
りと大地を見た。
「…どんな風に?」
「…今弾いてるところ、……もっと、あっけらかんと明るいメロディだった気がするんだ
けど、…土岐が弾いているのは、なんだか」
またうつむいて鍵盤に視線を落とし、蓬生は口元だけでうっすらと笑んだ。
「…昔聴いたことがあるだけ、言うたわりには勘がええな」
「……?…土岐?」
まだ曲の途中だろうに、不意に蓬生は鍵盤から手を離した。ぎゅ、と一度指を握ってから
改めてまた曲を弾き始める。今度弾いているのは軽快で明るい、踊り出すような曲だ。…
こっちは知ってる、と、大地は思った。
その思いを裏付けるように、弾きながら蓬生はつぶやく。
「…ほんまは、こういう曲や。…さっきのは、俺が少しだけアレンジしてん」
鍵盤を見つめながら弾き続ける彼に、大地はなぜ?と問うてみた。
……曲が止まる。
「…榊くん。…この曲のタイトル、知っとう?」
「……いや」
「人形の夢と目覚め、…いうねん」
大地はまばたきを一つする。蓬生は椅子の背もたれに肘を置き、身体半分大地に向き直っ
た。
「なあ、意味ありげやと思わん?…きれいな夢だけ見て寝とったらいいはずのお人形は、
なんで目ぇ覚ましてしもたんやろ。…目覚めて、誰を見とるんやろ。……そう思ったら、
かわいい、明るい、きれいなままの印象では終われんと俺は思うんよ」
「…」
大地は一度目を閉じてから、ゆっくり唇を引き結ぶようにして笑い、瞳を蓬生に据えた。
「…人形は、俺かい?」
「…どないやろ」
蓬生も大地を見て笑う。
「……俺かもしれんよ」
挑むように自分を見つめる瞳に、薄く笑う唇に、誘われるようにふらふらと大地は近づい
た。逃げない蓬生に覆い被さるように身をかがめ、ピアノの鍵盤に手の平をかけて口づけ
ると、はずみで親指がぽーん、とAの音を鳴らした。CやGに比べると不安定で、なのに
どこか心惹かれる音。
深くなる口づけに酔いながら、大地は耳にこびりつくAの音を追う。…まるで今の自分た
ちのようだと、ふと思った。