amabile,cantabile.


他に適任がいるなら代わってもかまわないけどね。俺はただ、自分に出来る最善を尽くす
だけだ。


身を灼くような八月の太陽を避け、木陰を選んで歩く。この星奏学院の森の広場を、蓬生
は気に入っていた。千秋は、雑踏の中や公園など、人が集まるところに好んで身を置きた
がるが、蓬生は、そういう場所も悪くはないと思うものの、どちらかといえば人の目を遮
るこういう場所の方が落ち着けた。
校風がおおらかなのか、他校の生徒が入り込んでいても誰も気にする様子がなく、猫です
ら、ヴァイオリンの音色に何だまたかという顔をするだけで逃げもしない。
−…そういえば、こないだここでツィゴイネルワイゼン弾いたったら、にゃーにゃーいう
て喜んどった変なトラ猫がおったな。
もしかしたら今日もいるかもしれない。足元をきょろきょろしながら広場の奥へと歩を進
めていた蓬生は、かすかに聞こえてきたヴィオラの音色に足を止めた。
「……」
苦笑いする。星奏にヴィオリストが一人ということもないだろうし、聞いて即それとわか
るほど、彼の音を知っているわけではない、が。
「……せやけど、なーんか、…そんな気がするんやなー…」
ひとりごちる蓬生の予感は当たっていた。
何本かの木の向こう、日向を避けた木陰で、大地が一心にヴィオラを弾いていた。
蓬生は気配を殺してゆっくり近づく。ちょうど大地は蓬生に背を向けていて、気付いた様
子はない。
−……シチリアーナ、……か?
ヴィオラの音は主旋律ではないし、コンクール用にアレンジされているから断言は出来な
いが、恐らくそうだろう。
しばらく演奏を聴いて、やがてひそりと蓬生は笑う。
−……あーあ。…あないはったりかましたわりに、えらい余裕のない音出して。
自分に出来る最善を尽くす。大地はそう言っていた。だが、今の彼の演奏は最善にはほど
遠い。
蓬生が直近に聞いた大地の演奏は、東日本大会のステージを個人が録画したものだったが、
今の演奏はそのときのレベルにすら届いていない。セミファイナルまではまだ時間がある
が、曲の弾きこみが足りないというよりは、何かの影響で音が損なわれている。そんな印
象を受けた。
−…んー。惜しい、かな。
そもそも、大地の音はソリストを張れるレベルにはとうてい至らない。アンサンブルの一
音としてならなんとか聞ける、という技倆の持ち主に過ぎない、…のだが。
−…なーんでやろ。
蓬生は小首をかしげた。
−嫌いやないんよな、あの音。
大地の音は、見た目のナンパぶりとはほど遠い、真面目な音だ。大地の生来の性分はかな
り生真面目らしい。…だがそのヴィオラはちらほらと時折、聞いている者がはっとするよ
うな音を出す。真面目一辺倒ではないその音の揺れがおもしろくて、心に引っかかる。
−あれが色気になったら、結構ええ線いくと思うんやけどなあ。
本人ももちろん、今の自分の演奏には納得できていないのだろう。弾き終えてヴィオラを
おろし、息をついた大地は暗い顔をしていた。
…その顔を見てふと思い出したのは、あの日の大地だ。星奏の弱点は大地だと指摘した蓬
生に、大地は、他に適任がいるなら代わる、ただ自分は最善を尽くすと言い放った。
負け惜しみ、へらず口、そないにむきにならんでも、とにやにやしていた蓬生は、ふと顔
を背けた大地の一瞬の表情に目を止め、違和感を覚えた。
氷の炎のような何か暗い熱。…それが蓬生に向けられたものなら、からかわれたことへの
不快感ということで理解できるが、どうもそうではなく、ほとばしるような感情は彼の内
側に向けられているようだった。
…その冷ややかな熱情に、蓬生は自分の心がささくれたような、なにかちりりと焼けるよ
うな感覚を味わった。
嫌な感触をごまかそうと、「はー、驚いた、榊くんも若いんやねえ」と、ことのほか彼を
挑発する言葉を浴びせかけ、その場を、…というよりは自分自身をまぎらわせたのだった
が。
…あの炎は、いったい何に対する炎だったのだろうかと、蓬生はふっと考える。
だが、後輩達や律がいる場所では、彼は決して本心を出さないだろう。余裕ぶって仮面を
かぶるに決まっている。
−…今日は誰もおらん。……ええ機会かもしれん。
蓬生が気配を殺すのをやめ、木陰から一歩踏み出すのと、大地が何か気付いた顔でぐるり
と首をめぐらせるのはほぼ同時だった。目が合って、大地は露骨に嫌そうな顔になり、そ
れを見て蓬生は思わず笑う。
「かなんわあ。毛虫か蛆虫でも見たような目で睨むん、やめてや」
「…いつから?」
目の険が取れないまま、大地は聞いた。
「んー?…最後の数フレーズくらいは聴いたかな?」
穏やかに、…なるべく人が良さそうに見えるように笑って(もっとも、大地に対しては何
をしても無駄なのだろうが)、首をすくめる。
「…どないなん?…納得のいく練習になっとう?」
「……」
大地は眉をひそめ、薄笑いを浮かべた。
「君が今聴いたとおりだよ」
…さよか、と、蓬生は心の中だけでひとりごちる。
−…とりつく島もないっちゅうのはこのことやな。
いつもならここで引き下がる蓬生だったが、今日は何となく、もう一押し二押ししたい気
分だった。周囲に口を挟んできそうな厄介なギャラリーはおらず、脳裏からはどうしても
あの氷の炎が消えない。…だから。
「…せやったら、少し休憩せん?……お話ししようや、榊くん」
…ふっ、とまた、大地が少し身構えるのを見て取って、蓬生はゆっくりと手を左右に振っ
た。
「ああ、あかんあかん。…そない身構えんのなし。…気ぃ抜いて?せやないと休憩になら
んやろ。俺かって、そこまで張り詰めてる子ぉをいじるほど性格悪ないわ」
大地はゆっくりと眉をひそめる。
「…敵に塩を送ってくれる、って?」
苦い声は少しかすれていた。…大地の気配はぴんと張られた糸のようで、今にも切れそう
に思える。たまらず蓬生も顔をしかめた。
「…今君はそういう状態なんや。…敵に塩を送られるくらい、余裕がない。…ちょっとは
自覚し」
意識して少しきつい声を出すと、はっとした様子でようやく大地の気配がゆるんだ。肩か
らも力が抜ける。
「…今日は、いつもがみがみくってかかる弟くんも、君が余裕を見せたい小日向ちゃんも
おらん。…なあ、榊くん。ややこしい空言はなしにしようや。ほんまのとこどないなん?
聞かせてくれん?」
…座るわ。榊くんも座りぃや。
促して、蓬生の方から草の上にあぐらをかくと、大地も素直に木の下に腰を下ろした。
「…質問がずいぶん唐突だな」
声にゆったりとした響きが宿る。こんな落ち着いた声を聞くんは初めてかもな、と思って、
蓬生は少しおかしくなった。
−…俺らはほんまに、よるとさわると、いっつも二人でとげとげしとったんや。
「何が、『ほんまのとこどないなん』なんだ?…もう少し説明してくれないか」
「そらそうやね、確かにいきなりやった」
首をすくめる。
「気になっとったんは、他に適任がおったら変わってもええ、って、…あれや」
「……」
大地も首をすくめた。
「ぶっちゃけ、君の目標は如月くんとコンクールのステージに上がることなんやろ。…ち
がう?」
返事はないが、否定しないのは肯定の印と判断して勝手に話を進める。
「三年間やってきて、まだテクニックは足りんにせよ、やっと夢が叶うわけや。それを、
適任がおったら代わるって言うのが理解できん。…もしかして、もうこの大会に如月くん
が出られへんからなん?」
「いや。…セミファイナルは無理だろうけど、ここで勝てればファイナルには間に合う可
能性がある」
「俺らに勝つ気なん…って、混ぜっ返しとったら話が進まんな。今のなし、聞かんかった
ことにして。……つまり君は、ファイナルまで何としてでも自分の椅子にしがみつきたい
はずやろ?…ほならなんで、あの発言なん。俺にからかわれたから売り言葉に買い言葉な
んかとも思ったけど、どうもそうでもなさそうや。……真意が読めん」
「……」
大地は少し考えてから、上を向いてふーっと息を吐いた。
「…そうだな。…自分でも上手く説明できる気がしないけど、君は頭がいいから、説明不
足でも推し量ってくれるだろう。……正直、この大会に関して、優勝したい気持ちと律と
一緒にステージに立ちたい気持ちを秤にかけたら、優勝したいが八割、一緒にステージに
立ちたいが二割くらいかな。…この間の言葉は嘘じゃない。優勝するために俺が外れた方
がいいなら、俺は喜んで外れる」
蓬生は眼鏡の奥の瞳をゆっくりと細めた。
「…そないガツガツ勝ちに行くタイプにも見えんけどな、君」
大地もうっすらと笑い返す。
「…それが正直ベースやとしたら、君をそこまで駆り立てるものは何なん」
大地は蓬生の顔をまっすぐに見て、それから少しうつむいた。…うつむく寸前の表情を見
て、蓬生ははっとする。
…あれだ。……あの氷の炎。
「……俺は、…律の記憶を上書きしたい」
噛みしめるような声だった。
「律は、…この夏の大会を愛している。他のどのコンクールよりも大切に思っているんだ。
それなのに去年、このコンクールの会場でけがをして、……そのけがが引き金になって、
プロの演奏者としての前途はもうほぼ望めなくなってしまった」
…そこまで悪いのか、と、蓬生は顔をしかめた。けがをしたとは聞いていたが、そんなに
絶望的な状況とは知らなかった。
「このまま、…この最後の三年生の大会で何の結果も出せずに終われば、律にとってこの
大会は、辛い傷の記憶しか残らない。律の愛した大会を、律の中で嫌な記憶として留めた
くないんだ。何としても頂点を掴んで、彼にとってこの大会が幸せな思い出になるように
したい」
……何だってするさ、そのためなら。
冷静を装おうとはしているものの、どこか傷口から血がにじんでいるようなその思いの吐
露は、蓬生にすら痛々しく感じられた。
…律、律、律。…繰り返しその名を呼ぶたびに、怖いほど大地のまとう空気が研ぎ澄まさ
れていく。…大地がいつも軽い声とはったりと余裕とで隠しているのは、こんなにも鋭く
もろい、彼への思いだったのか。
−あほや、なあ。…思い詰めて思い詰めて、…そのくせ、あの子に伝える気ぃもないんや
ろ。そうやって、自分の中だけで大切な思いを研いで磨いてばっかりおったら、いつか芯
だけになって折れてしまうで。
思いを隠さず音に出せばいい。愛しい愛しいとつのる心、大切にくるむような眼差しの優
しさ。…それが音になれば、きっと大地の生真面目な音に艶が出るだろう。彼の音が本来
持つはつらつとした明るさに、ふわりと心をくすぐるような愛らしい色っぽさが華を添え
るだろう。
−…俺は、聞いてみたい。この必死の思いが、彼の音に転化されるのを。
ふつふつと、蓬生の心の奥底から何かがわいてくるようだった。こんな気持ちは初めてだ。
自分の手で彼の音を変えたい。無性にそう思う。突き動かされるように、蓬生は思わず口
を開いていた。
「…ようわかったわ。…ありがと」
大地は少しはっとした様子で顔を上げる。珍しく、少し頼りなくも見えるその顔を、蓬生
はじっとのぞき込む。
「めっちゃ素直に答えてくれたから、…俺も一つだけ、本気で忠告するわ」
大地は蓬生の言葉に身構えなかった。心の中を吐き出して、どこか放心しているようにも
見える。
「な、榊くん。…ヴィオラ持ったら、ごちゃごちゃ考えんの、やめ。…君は周りが見えす
ぎる。四人で弾いたら他の子の調子やらバランスやらばっかり気にかけて、一人で弾いた
ら一人で弾いたで、曲以外のことにも意識が振れとう。……気配りや先読みは君の癖なん
やろうし、そういう人間もアンサンブルには必要やけど、今の君はそれよりまず、自分の
音を変えなあかん」
噛んで含めるように、蓬生は語りかける。
「せやから、自分に暗示かけてみ。…ヴィオラ持ったら、自分の好きな子のことだけ考え
る。その子のことが好きやって、それだけ考える。……そないして弾いてみ。……そした
らたぶん、音、変わってくると思うで」
大地はぽかんとしている。
伝わっただろうか。蓬生の言葉が。信じてもらえただろうか。蓬生が本気で、大地に相対
していることを。
「…土岐……?」
ぼんやりと名を呼んで。…そうして大地は、ゆっくりゆっくり蓬生の言葉を反芻するよう
に、瞳をすがめた。じわじわと彼の中で自分の言葉が満ち、理解されていく様子を、蓬生
はじっと見守る。
「……ヴィオラを持ったら、…余計なことを考えない」
小さなつぶやきを聞いて、蓬生はにこ、と笑った。
「……あーあ。…本気で敵に塩送ってしもた。…俺も阿呆やなあ」
大地が顔を上げる。…柔らかい、穏やかな声が蓬生を呼んだ。
「…土岐」
−…いい声やん。…そんな声で俺を呼ぶん、初めて聞いたわ。
蓬生はふっと笑った。
「セミファイナル、楽しみにしてるわ、榊くん。…俺に言わせたら君はまだまだ下手くそ
やけど、音自体は嫌いやない。……本番では、俺に、惚れたわって言わせるようなええ音
聞かせてや?」
大地はその言葉に目をぱちくりさせた。呆気にとられているその顔がおかしくて、蓬生は
ふと、地面に手をついて身を乗り出し、逃げられないように大地のネクタイを軽く掴むと、
その唇にかすめるようなキスをした。
「……っ!……!?……っ!!!」
触れただけですぐに唇は離れたし、この程度のキス、初めてでもないだろうに、言葉にな
らない様子で大地は無言で口をぱくぱくさせている。蓬生はげらげら笑った。
「……土岐…っ!!」
大地の声が出たのをしおに、蓬生は立ち上がった。
「まあ、アドバイスのお礼、ゆうことにしといてや」
「できるかっ!」
「なんで。…アドバイス一つにキス一つ。いい取引やん」
「はあ…!?」
「ほんなら、がんばって練習続けて。…お邪魔様」
さらりと背を向けて場を立ち去る。背後でいまだ大地は当惑しているようで、動く気配は
ない。
……だが、しばらく歩いて木で蓬生の姿が見え隠れするようになったあたりで、かさりと
草の音がして、彼が立ち上がってもう一度ヴィオラを取り上げ、弾き始めたのがわかった。
……シチリアーナ。
どこか切なく澄んだ音。優しい深い愛情に満ちた音。
……ふふ。
蓬生は小さく笑った。


一曲目の演奏を終え、舞台袖に陣取る千秋達の前で、星奏の一曲目の演奏が始まった。
曲目はシチリアーナ。
額に手を当て、目を閉じて音が始まるのを待っていた蓬生は、最初の一節ではっと目を開
いた。
ファーストヴァイオリンのかなでの音は、明らかに変化した。強く、高らかに、弾くこと
の喜びを寿ぐように華やかに歌う。ちらりと千秋をうかがうと、彼も苦笑いと誇らしさが
混じり合ったような顔をしてかなでを見ていた。彼女の音を華がないと評して、ライバル
であるにもかかわらずこの高みへと導いたのは千秋本人だ。さぞくすぐったいような思い
をしていることだろう。
薄く笑って、蓬生はもう一度目を閉じた。意識はファーストヴァイオリンを離れ、彼女を
支える低い音に集中する。…その唇は、千秋と同じ形に苦くゆるんだ。
−…ああ。……ええ感じに化けたやんか、榊くん。
甘く、深く、ゆるやかに。愛しい愛しいと震える弦。
目を閉じたまま、その音を追っていると、不意に肘のあたりをつつかれた。目を開けると
それは隣に立っている千秋で。蓬生が目を合わせると軽く睨む。
「…お前、榊に何か言ってやっただろう」
「……は。…何のこと?」
「…ついこの間まで、あんな色気のある音じゃなかったぞ」
「せやねー。…何の心境の変化かなー」
「しらばっくれんな。…さっきの苦笑い。…手助けしすぎたって思ったんだろうが」
蓬生は的確な指摘に薄く笑った。
「…かなんなあ、千秋は」
…確かに。大地の音を聞いて、しくじったと思う気持ちと、彼の音を変えたのは自分だと
いう誇らしさが交錯した。おそらくその顔は、かなでの音を聞いて千秋が浮かべたものと
同じ色をしていたことだろう。
「…せやけど、小日向ちゃんのヴァイオリンもよう歌うようになったやんか。…あれ、千
秋のせいやで」
お返しに指摘してやると、千秋は苦虫を噛み潰したような顔でぐっと黙り込んだ。大地の
変化よりもかなでの変化の方がよほど如実なのだから、言い返しようがないのだろう。
「…まあ、つまらん勝負になるよりはいいだろう」
「そうそう。…相手がどう変わろうが、俺らが勝てばええんやし」
けれどもし。……もしも、彼らがファイナルに進んだら。
「……蓬生、お前」
気付くと、まじまじと千秋が蓬生を見ていた。目をすがめ、呆れ果てたという顔だ。
「…あいつらが勝ったらとか、…余計な想像しているだろう」
・・・・・。
蓬生は額に手を当てた。幼なじみが聡いのは重々承知だが、これではまるで。
「…人の心勝手によみなや。…エスパーか」
「勝つのは俺たちだ」
「当たり前やんか」
蓬生は不敵に笑う。
「勝ちにいこ?」
「……ああ」
にやりと、自信に満ちた笑顔を見せてから、千秋はゆるり目を閉じた。
「…おもしろい音だな。…まだ変わる余地がある」
ひとりごちる感想は、かなでのことだろうか。……それとも。
「……伸びしろを、…見てみたい気もするな」
……そうやね。
蓬生は口に出しては何も言わず、ただ心の中だけで同意した。
この音はまだ変わる。
……俺のこの手で、彼の音を変えてみたい。もっと、……もっと、愛らしく歌うように。

amabile,cantabile.(愛らしく、歌うように)