アメイジンググレイス 「大地」 準備室で夏までの練習スケジュールを修正していた大地の前に突然律が現れ、倒れ込むよ うに前の椅子に座り込んだ。 「何でもいい、…弾いてくれ」 腱鞘炎を発症してから、律は時々、大地にそうねだるようになった。 さすがの律も、痛みと向き合ううちに、これ以上弾いてはいけないラインがわかるように なってきたらしい。本能に止められるのだといつか大地に吐露したことがある。 だがそれでは音が足りない。もっと音に溺れたい。むさぼりたい。 …そんなとき、律は大地のところへ来る。 「腕が痛むのか」 「…いや、…まだ大丈夫」 「…嘘だな」 大地は顔をしかめた。 律のぎりぎりは本当のぎりぎりだ。少し手前でやめるということをしない。だから、弾く 手を止めたときには痛んでいなかった手も、大地のところに来る頃には痛み始めているは ずだ。 大地は黙って、冷却シートを鞄から取り出し、律に放り投げた。 本当は氷があれば一番いいのだが、さすがに校内では調達が難しい。冷却シートは気休め にしかならないが、ないよりはましだ。 「律。一曲聴いたら帰れ」 「……」 律は、冷却シートを手に貼ることに熱中する振りをしている。 「律」 「…」 「返事」 「…わかった」 「…」 大地は深いため息を一つついて、弓を取り上げた。 「何を弾けばいい」 といえるほどレパートリーもないのだが。 「なんでもいい。…大地の弾きたい曲で」 ぐったりと律は机に伏した。痛む左手は椅子のパイプに添えられている。金属に触れてい る方が、ひいやりとして気持ちがいいのかもしれない。 「……」 大地は今度のため息はのみこみ、弓をそっとヴィオラに当てた。…そして慎重に弾き始め る。 低い音から高く伸び上がるメロディ。ヴィオラの柔らかい音は、女声のアルトに少し似て いると大地は思う。だから、ヴィオラで歌曲を弾くのは結構好きだ。 「…アメイジンググレイスか」 ぽつりと律は言った。その声には少し残念そうな響きがある。 「不満そうだな」 弾きながら大地がちらりと律を見ると、机から顔を上げた律はまっすぐに大地を見ていた。 「いや、不満はない。好きな曲だ。……でも」 「でも何だ」 ……。 「…短い」 「…」 逡巡しながら律がつぶやいた一言に、大地は思わず吹き出してしまって手を止めた。 「笑うな」 拗ねた律の声。 「すまん、つい」 と言いつつも、腹の底で泡のようにはじける笑いの発作がとまらない。大地は手で口を押 さえてひたすらこらえる。そこへ律がだめ押しのようにまた拗ねた。 「一曲で帰れと言ったのはお前だろう。…もう少し長い曲を弾いてくれてもいいじゃない か」 「子供か」 「……」 ようやく大地は笑いを飲み込んだ。あらためて弓を取り上げ、弦に触れる。 「わかったよ。…二回弾く。そしたら帰れ。…いいな?」 「……」 律がようやくぼそりとうなずいたので、大地はもう一度最初から、同じ曲を弾き始めた。 律は無言で、音に身を委ねている。 二巡目の最初のフレーズを弾き始めたときだった。 不意に律が目を閉じたまま、 「夕焼けだ」 とつぶやく。 大地は顔を上げたが、初夏の日は長く、まだ日が暮れる気配はない。 戸惑いが音に伝わったのか、律が目を開けた。大地を見て、かすかに微笑む。 「ちがう。…お前の音が、夕焼けのようだと…」 そう思った。 語尾はささやくようにすこしかすれ、大地のヴィオラの音の中に呑み込まれる。 律が耳で見ているものが何なのか、大地にはわからない。ただ、再び閉ざされた律のまぶ たに、静かな安らぎが宿ったのがわかる。 なぜかふいに、ハルの神社で祭りの手伝いをしたときに耳にした祝詞が耳によみがえった。 『たいらけくやすらけくきこしめせとかしこみかしこみもうす』 たいらけくもやすらけくも、おだやかにやすらかにという意味だ。くりかえしくりかえし つぶやくと、気持ちが凪いでいく不思議な呪文のような言葉。 たいらけくやすらけく。 短い言葉を弓にこめ、大地はヴィオラを響かせる。 俺の音は、俺のヴィオラは、君をやすらがせているだろうか。俺の音が君に見せる夕焼け は、君にとっておだやかなものだろうか。 …どうかそうでありますようにと、今はただ、祈る。