雨の言葉


「アシュヴィン」
常世の兵達の鍛錬中、少し離れたところで同じように中つ国の兵達を鍛錬していた忍人が、
やや足早にやってきて声をかけた。
「一雨来そうだ」
そう言って、空を見上げる。つられてアシュヴィンも空を見上げた。…なるほど、北の方
から重い鉛色の雲がこちらへ押し寄せてくるのが見える。
「時雨れるだけならばいいが、霙か雪になるかもしれない」
アシュヴィンはうなずきかけ、…ふと、動きを止める。
「兵達に風邪を引かせたくないので、俺はそろそろ切り上げようと思う。君も早めに終わ
らせた方が……」
忍人はそこで言葉を切り、身じろぎしないアシュヴィンをのぞき込んできた。
「……どうかしたか」
「…何がだ?」
アシュヴィンが淡々と返すと、忍人は少し困った顔になる。
「…いや、…君が少し、ぼんやりしているように見えたから」
「……」
困惑露わな僚友の顔に、常世の皇子は軽く肩をすくめ、安心させるように薄く笑う。
「…何でもない。お前の忠告に従おうと思っただけだ。…俺も兵をまとめよう。…後でな、
忍人。忠告感謝する」
「……。…ああ」
訝しげな顔をしたまま、忍人は自らの隊に戻っていった。その背中に背を向けて、アシュ
ヴィンは忍人の言葉を小さく繰り返す。

−…シグレ、ミゾレ、…ユキ。


忍人の予報は正しかった。
さあさあと静かに降り始めた雨は、やがて音もなく雪に変わった。積もるような降りでは
ないが、堅庭の石畳を凍らせ、その上に白い薄布のような淡雪をかぶせる。
夜半、アシュヴィンは堅庭に出てみた。足元からしみこむような寒さがじわじわと寄せて
くる。重い雲に覆われて、空には何の明かりも見えないが、雪は止んでいた。
白い息を吐きながら、アシュヴィンが庭の突端へと歩を進めようとしたとき、背後から声
がした。
「アシュヴィン」
忍人だ。声の主に気付いたアシュヴィンの唇にかすかな微笑みが宿る。
「何だ」
振り返ると、忍人は冷静な、それでいてどこか不得要領な顔でアシュヴィンを見ていた。
「リブは」
「寒いからもう寝ると言っていたが」
「君は、ここで何を?」
「…雪見だ」
「…。…雪見と言うほど積もっていないのに、酔狂だな」
「…はは。…そうだな」
「…」
「…」
何ともいえない沈黙が落ちる。元々寡黙な忍人だ。黙り込むのは不思議ではないが、いつ
もの沈黙に比べると今日の忍人の沈黙はひどく雄弁だ。
「…聞きたいことがある、という顔をしているぞ、忍人」
「…」
忍人は少しだけ顔をしかめた。
「…言いたいことがあるのは、君の方だろう」
「……俺?」
「昼間、俺が君のところへ行ったとき、…君は何か言いたげだった」
「…ああ。…あれか」
アシュヴィンは小さく肩をすくめる。
「…あのとき俺は、感動していたんだ」
「感動?」
「ああ」
「何に?」
「…。中つ国の、雨の言葉の豊かさに」
「……っ」
忍人が小さく息を飲む。アシュヴィンは笑った。
「…常世ではな、忍人。雨は、『雨』で終わりだ。後は雪と、それから雹。それくらいし
かない。…だがお前達中つ国の民の言葉は違う」
「……」
「お前は、一雨来ると言った。そして、シグレると言い、ミゾレと言った」
「……ああ」
「…雨のことなのだろうな、と察しはつく。だが、どんな雨なのか、何が違うのか、俺に
はわからない。…元は同じ言葉だったはずなのに、常世ではその言葉は失われてしまった。
……それくらい、俺の国とお前の国では天の恵みの豊かさが違うんだと、雨の言葉一つで
思い知らされて」
「……アシュヴィン」
たまりかねたように忍人が名を呼ぶ。もういいと、もう話さなくていいと、そう言いたげ
に。痛いなら、つらいなら、話さなくていいのだと。……だがアシュヴィンはゆるゆると
首を振った。
「…俺は、言葉の美しさに聞き惚れた」
「………」
「…忍人。もっと教えてくれないか。お前の声で、お前の国の雨の言葉を、俺に」
虚を突かれた顔をしていた忍人は、そこではたと我に返った。
「…あいにく俺は不調法で、さほども言葉を知らない。…俺よりは柊や道臣殿の方が、言
葉を知っていて適任なんだが」
「お前がいい」
戸惑い気味に、やや及び腰の忍人の手をアシュヴィンは捕らえた。
「…お前がいいんだ」
忍人の瞳が眇む。…拒絶ではなく、やわらかな苦笑に。
「…君は」
「…俺?」
「…。いや、君ではないな。…俺か」
「…?」
「何故俺は、君に請われると断れないんだろう」
今度苦笑するのはアシュヴィンの方だった。…これではまるで愛の告白ではないか、と。
忍人自身は無自覚のようだが、無自覚故に真摯で、……どうしようもなくたちが悪い。
二人の間のきまりの悪い沈黙はやがて、忍人の声によって破られた。
「…そうだな。…冬の雨なら時雨。それに氷雨。…氷の、雨だ。…霙、霰、…雪時雨、寒
の雨。春になれば春霖、菜種梅雨。夏の夕立、驟雨、村雨……」
静かな声が、一つ一つ思い出すように言葉を綴る。アシュヴィンは黙ってそれを聞き続け
た。
逃げられまいと忍人の腕をつかんだアシュヴィンの手は、本人にふりほどかれないままま
だ忍人をつかんでいる。
じわりと伝わる忍人の体温は、つないだ手だけではなく、アシュヴィンの心の底にもやわ
らかな熱を移した。