あなたに会えてよかった

「姫」
いつものように風早が二ノ姫のところにご機嫌うかがいに行くと、姫ははっとした顔をし
てぱたぱたと帳の向こうに隠れた。
「……姫?」
「なんでもない!」
叫んでふるふると首を横に振る。
「今日は、姉様と用事があるの。ごめんなさい、風早」
暗に、下がれ、と言われているのだ。…風早は少ししゅんとして、けれどおとなしくその
場を下がった。

しかし、姫のその態度はその日だけではなかった。次の日も、またその次の日も、姫の部
屋に顔を出すと、今日は勉強を言いつかっているの、だの、姉様に頼まれていることがあ
るから、だのと言って、姫は風早と遊んでくれない。

「………なんだか、…風早の様子がおかしい」
岩長姫の屋敷でぼそりとそう言ったのは忍人だった。
「…そうですね、なんとなく」
柊も少し首をかしげる。
いつもなら、鍛錬が終わればすぐに宮に駆けていく風早が、今日は鍛錬が終わってもため
息をつきながら、てろりん、と、戦術書の竹簡などを繰っている。
「あれ、風早はもうとっくに読んだはずの竹簡だと思うけど」
「そもそも、あんな速度で竹簡を読む男ではないです」
ぼそぼそと言葉を交わし合う柊と忍人を、ふっふーん、と笑いながらがば、と上から抱え
込んだのは羽張彦だ。
「俺は理由を知ってるぜー」
鼻歌でも歌い出しそうな勢いでそう言った。
忍人が、くるりと目を丸くして上を見上げる。
「どんな理由?」
「二ノ姫に邪険にされてるのさ」
「…ああやっぱり」
そうつぶやいたのは柊だ。忍人はふうん?とよくわかっていない顔をする。
「姫は何故、風早に邪険にするんだ?姫は風早にとてもなついていると聞いたが」
忍人の素直な問いに、羽張彦はまたわはは、と笑う。
「ま、それがわかりゃ、風早もああ落ち込みはしないわな。わからないからあんなぼけっ
としてるのさ」
柊がそっと羽張彦の腕を放しながら肩をすくめた。
「君は知っているんでしょう?二ノ姫が風早を避ける理由」
「………な、なんのことだ?」
「下手なごまかしをしてもだめですよ。顔に書いてあります。俺だけは知ってるんだぞっ
て」
あっさり柊に言われて、嘘の下手な羽張彦はそれ以上はうまくごまかせなかったようだ。
「知ってるのか、羽張彦?どうして風早に教えてやらない?」
忍人がとがめるような目で羽張彦を見た。いつもならその目に大層弱いはずの羽張彦はし
かし、真面目な顔で首を横に振った。
「こればっかりは言うわけにはいかない。姫との約束だからな」
「…?」
「俺も偶然知っちまったんだ。そのとき二ノ姫と約束したのさ。絶対言わないって。男と
男の約束…じゃないが、約束は約束だ。破るわけにはいかない」
「……ふうん?」
怪訝そうに忍人が首をひねる横で、柊もふうん、とつぶやいた。が、こちらは首を縦に振
ってうなずくそぶりだ。
「…なんだよ」
「なんとなくわかりました、理由」
想像に過ぎませんが、たぶん合ってると思います、と苦笑混じりに柊は言う。羽張彦は同
じような苦笑いで柊を見て、そうだな、その想像でたぶん合ってるだろ、とつぶやいた。
「じゃあ、柊が教えてやれば、約束を破ったことにはならないんじゃないか?」
忍人がまっすぐ素直な目で柊をのぞき込む。が、柊は首を横に振った。
「私の考えはあくまで想像ですしね。間違っていたら風早に申し訳ないし、合っていたと
したら、羽張彦が姫に責められるでしょう」
「………?」
「姫の秘密を風早の近くで知っている者は羽張彦だけなのでしょう?だから風早に真実が
知れれば、たとえ私が教えたのだとしても二ノ姫は羽張彦が教えたのだと思うでしょう。
結果的に羽張彦が約束を破ったとみなされる。それは羽張彦に気の毒ですから」
「…あ」
忍人がふわん、と口を開けた。なるほど、という顔になる。羽張彦も肩をすくめて笑った。
「そういうことだな。…頼むぜ、柊。風早に言ってくれるなよ?」
「わかってますよ。…まあ、君がいつまでもらさないでいられるかのほうが気になります
けどね、私は」
「言うもんか。もらしたら、二ノ姫だけじゃなく一ノ姫にも嫌われちまう」
「………なるほど。…それはさぞかし君の口も固くなるでしょうねえ」
わかっている二人の間で、一人理由がわからない忍人が少し頬をふくらます。羽張彦はそ
の顔を見て、ぽんぽんとなだめるように忍人の頭を二回たたいた。
「拗ねるな拗ねるな。…たぶん、そう待つこともないさ。次に十三夜の月が昇る頃までに
は理由はわかるはずだから」
ああやっぱり、と柊がぽつりと言う。忍人は納得していない顔ながら、むっつりとうなず
いた。
風早はまだ一人ぽつねんと、戦術書の竹簡をもてあそんでいる。………竹簡はちっとも繰
り広げられていかない。

姫に避けられつつも、世話係としての役目上、風早は毎日宮に顔を出さねばならない。そ
の日も、もう姫に避けられ始めて何日がたつか、と、少し肩を落としながら宮に向かった
彼だったが、その日は少し様子が違った。
彼が宮につくとすぐ、二ノ姫のお付きの采女が、世話係の詰め所に彼を呼びに来た。
「姫様がお呼びよ、風早」
「……え?」
ぽかんとした顔の風早を見て、いつもひどく冷静で何があっても顔色一つ変えない彼女が
かすかに微笑んだ。
「…早くいらっしゃい」
「は、…はい」
風早はあたふたと身仕舞いを整えて、彼女の後に付き従って二ノ姫の部屋へと足を向けた。
招かれた部屋は、二ノ姫に避けられ始めた頃と何も変わらない。采女は静かに下がってい
った。千尋は窓際に置いた円座に腰掛けていたが、風早の顔を見て少し面はゆそうな笑顔
を浮かべて立ち上がった。
「…こんにちは、風早」
「……姫」
言ったきり、次の言葉が出ずに、風早は二ノ姫の前に膝をついた。うつむく彼に、姫はし
おれた声でこそりと言った。
「ずっと、避けてて、ごめんなさい。…どうしても、今日まで秘密にしておきたかったの」
「………は?」
風早が顔を上げる。と、目の前に千尋がしゃがみ込んでいて、そっと風早に向かって手を
差し出していた。
「……これ、…あげる」
彼女が掌を開くと、糸を組んで作った紐がはらりとのっていた。青と白で組まれている。
どこかゆがんだ仕上がりだった。
まじまじと風早が見ていると、あんまり細かく見ないで、と姫が顔を赤らめた。
「姉様に教えてもらって作ったんだけど、私無器用だから、姉様みたいに上手に作れなか
った」
「姫が、…作ってくれたんですか?…俺のために?」
風早はぽかんとした声で言う。そうよ、と二ノ姫は照れくさそうに笑う。
「覚えてる?…今日は、私が風早と初めて会った日なの」
「………!」
……ああ、…そうだ。
彼女の世話役として初めて宮にあがった日。もう冬の気配がそこまで来ているような、冷
たい風が吹く日だった。名もない地方の部族の子供が姫の世話役かと、通り過ぎる彼を見
る目も心なしか冷たい。白麒麟としての彼は、岩長姫の屋敷で共に過ごす仲間しか人を知
らなかった。だから白龍がなぜ人を滅ぼしたがるのかあまり理解していなかったが、ああ、
人にはこのように心狭い者もいるのかと、…だから彼は人を疎み始めたのかと、少し納得
する気持ちで、…二ノ姫の部屋に入った。
……そして、…太陽を見た、と思ったのだ。
金の髪でおずおずと微笑む少女の前に立って。晩秋のこの寒空の中、そこだけ春の日差し
がさしているように思ったのだ。
大切な大切な俺の姫。
「ずっと何か贈り物をしたかったけど、…何がいいかわからなかった。そのことを姉様に
相談したら、姉様は羽張彦が髪を結うときに使ってもらえるように、紐を組んだとおっし
ゃっていたの。…簡単だから私にも出来るって、…組み方を教えてくださったの」
ぽつりぽつりと姫は語る。
「驚かせたくて、…風早のこと、ずっと避けていてごめんなさい……風早?」
呼びかけられて、風早ははっと我に返った。二ノ姫がひどく心配そうな顔で自分をのぞき
込んでいる。
「どうして泣いてるの?私がずっと風早を避けていたから悲しかったの?」
泣いている?
風早は自分の頬をぬぐってみた。
……ああ、…本当だ。一筋だけ、濡れている。
……涙なんて。初めて流した。白麒麟は霊獣だ。人のように心を動かすことはない。だか
ら泣いたことなどない。……それなのに。
人の器に入っているからだろうか?なぜこうもたやすく俺の心は動くのだろう。
…それとも、動かすのがあなただからだろうか。
「……悲しくて泣いてるんじゃありません。…あなたが俺のために贈り物を考えてくださ
ったこと、その手で作ってくださったことに驚いて、うれしくて、……」
ありがとうございます、姫、と風早はかすれた声で言った。
「うれしいです、とても」
「ほんと?ほんとにうれしい?そんなにへたくそなのに?」
「ちっとも下手なんかじゃありませんよ。初めてなのに、とても上手に出来ています」
そう言うと、姫は少ししおれた顔をした。
「……本当は、初めて作ったのはそれじゃないの。……五本作って、ようやくなんとか使
ってもらえそうな見た目のになったの……」
風早は吹き出したいのをこらえて、そっと二ノ姫の頭の上に手を置いた。
「他の四本もくださいね?…使います」
「えっ?……ええっ?…ほ、本当にへたくそだよ?」
「姫が俺のためにと作ってくださったものを、万が一にも他の誰かが使うと思うと腹立た
しいですから。…羽張彦や柊が、ほしがりそうじゃないですか」
俺のために作ってくださった。俺と初めて出会った日を覚えていて、大切に思ってくださ
っていた。そのことが何よりうれしいです。
「ありがとうございます。…大切にします、姫」
「……うん」
えへへ、とようやく彼女はいつもの笑顔になった。そしてきゅ、と風早にすがりつく。
「今までありがとう。…これからもずっと、よろしくね」
「……はい、姫。…もちろんです」
もちろんです。…誰に阻まれようと、俺は必ずあなたを守る。…たとえあなたを傷つけよ
うとするものが神であったとしても。…俺はどんなものからもあなたを守ってみせる。
……そう。…神にでも刃向かってみせる。あなたのためなら。

今日は、あなたに会えた大切な記念の日。
あなたに会えて、よかった。