あなたに捧げる音


それは、まだ大地と蓬生が高校生で、互いにさほど踏み込めずにいた頃の話。
大地がふと、一度合わせてみないか、と提案してきたことがあった。
蓬生はその言葉にぎょっとした。
ぎょっとしたことを気付かれたくなくて、取り繕うように、
「何を言い出すかと思ったら。…榊くんのヴィオラでは、俺のヴァイオリンに合わすには
役不足や」
とあしらった。
大地は傷ついた顔もせず、鷹揚に笑って、厳しいなあ、土岐は、と言い、それきり同じこ
とは二度と言い出さなかった。

何故そのときそんなにぎょっとしたのか、説明しろと言われれば今でも蓬生は言葉に窮す
る。
敢えて言うなら、そうすることで二人とも傷つくような気がしたのだ。
自分が傷つくことも、大地を傷つけることも怖かった。……だから、蓬生は逃げた。

それから数ヶ月後。
大学入学と同時に、蓬生は上京した。
関東の大学に進学して経営を学ぶことを、蓬生は二年時の進路相談でほぼ決めていた。
母は一人娘で自分も一人っ子だ。母の駆け落ちで一時関係が疎遠になったにもかかわらず、
小さい頃から何かと可愛がってくれた祖父のことも、彼の大切にしている蔵も好きだ。跡
を継ぐとはおこがましくて言えなかったが、なにがしか手伝えればいい。
関西の大学で経営を学ぶことも考えたが、このままずっと同じ水で暮らすより、習慣の違
う地域で生活する方が自分にとってプラスになる、そう思って四年間だけ東京で暮らして
みることにした。
幼い頃の病弱な自分の印象が強い両親や祖父母はこぞって反対したが、千秋の「子離れし
いや。もうそんなやわとちがうで、こいつ」の一言がどうも効いたらしく、蓬生は晴れて
四月、一人暮らしを始めることになった。

大地に上京を伝えたのは、単に軽い挨拶程度の意味合いだった。だが大地は元来が世話焼
きなのだろう。自分も入学直後で慌ただしいだろうに、蓬生の引っ越し後、下宿先のマン
ションに折を見ては顔を出した。
一番気になるのは蓬生の生活習慣に関してだったようで、やれ、三食規則正しく食べてい
るかだの、きちんと睡眠は取っているのかだのといつも口うるさく心配する。
「おかんは二人もいらんよ、榊くん」
蓬生は苦笑で何度からかったかしれない。
だが、大地の心配はあながち的外れでもない。食べるのが面倒くさいと、蓬生は食事を取
らないことも多かった。自分ではそれで平気なつもりでいたが、度重なる内にとうとう大
地に見かねられ、彼の自宅に強制連行されて夕食をごちそうになった。
…大地が蓬生の下宿を訪れるだけでなく、蓬生の方からも彼の家を訪ねるようになったの
はその日からだ。口を開けば喧嘩腰なのは変わらないが、互いにそれを楽しむ、そんな行
き来を始めてしばらく。

…また、夏のコンクールが始まった。

その日、かなでにせがまれて練習の相手を務めた蓬生は、ついでにふらりと大地の家に立
ち寄った。
大地も他の後輩の練習相手になってやっていたようで、玄関から出てきた彼がまだヴィオ
ラケースを肩からかけていたので、蓬生は思わず笑ってしまった。
「重いんちがう?」
指さすと、大地は頭をかいて、
「今ちょうど帰ってきて靴を脱ごうとしたところだったんだよ」
と弁明し、蓬生に口を開く間を与えない素早さで
「だったら帰る、なんて言うなよ。せっかく来たんだ、上がっていってくれ」
言葉を継いで、あごをしゃくった。
…こういうところ、この男は上手い、と蓬生はいつも思う。他人に負担を感じさせない。
強引なのは自分の方だというそぶりで、逆に人を安らがせる。
促されるまま家に上がり、入れ違いに夕方の診療に出て行く大地の両親と挨拶を交わして、
蓬生はのこのこと大地の部屋を訪なった。
夕方になってもまだ日差しが強く、暑い。大地は窓を閉め切って、蓬生を気遣ってか、少
し弱めにクーラーをかけた。
数年前に改築したという彼の自宅は、防音がしっかりしているそうで、「部屋でヴィオラ
を弾いても外には漏れない」のが大地の自慢だった。…まあ、しっかりしているのは外壁
だけで、父や母には下手くそな演奏を我慢してもらうしかないけどね、そうオチを付け加
えたのはご愛敬だ。
窓を閉め切られたときにその話を思い出したのは、何かの前触れだったのか。
蓬生はふと思った。
……そういえば、この部屋で榊くんの演奏を聴いたこと、ないな。
思いついたらむらむらと、大地の音が聞きたくなった。
「…なあ、榊くん。…何か弾いて?」
ねだるように言ってみると、大地は少し驚いた顔をした。
「…俺が?」
「そう。…あかん?」
「…いや、…いけなくはないけど、………でも、…そうだな」
大地は少し考えて、傍らにあるヴィオラケースではなく、別の大ぶりの楽器ケースを出し
てきた。
大切そうに中から取りだしたのは、
「…ギター?」
「そう」
慣れた様子でチューニングしながら彼はうなずく。
「ヴィオラやないん?」
「元々、ギターの方が演奏歴は長いんだよ。…それに、一人で弾くならこの方がいい」
優しく言って、…大地は静かに弦をつま弾き始めた。
それは聞き覚えのある旋律だった。…どこかもの悲しい、遠い異国の音。少し遅れて、「ア
ルハンブラ宮殿の思い出」という曲のタイトルを思い出す。
「……」
大地のギターの音は、彼のヴィオラとは違って、不思議な暗さを帯びていた。弓で震わせ
るのではなくつま弾く音が、子供の頃から蓬生が習い覚えた三味線の音に重なり、はっと
する。
ゆるゆると、空のコップに水が満ちてくるような気がした。
……弾きたい。…この音と今、合わせたい。
おもむろに楽器ケースを開く蓬生に、大地は少し驚いた顔をした。
「…土岐?」
「そのまま弾いとって。…好きに合わせるから」
「…って」
困惑した顔は、彼もあのことを忘れていないからだろう。音を合わせようと言われたとき、
蓬生が戸惑い、応じられなかったことを。
…おそらく、だからこそ、大地はヴィオラではなくギターを選んだのだ。…一人で弾くな
らこれがいい、と言って。
蓬生は苦く笑う。
そう、あの時はわけもわからず、大地とは音を合わせられないと思った。…でも、その理
由に今気付いた。
榊くんのヴィオラは如月くんのための音や。…彼のために、彼を支えるために存在する音
や。せやけど、このギターの音は違う。誰のための音でもない。

(……大地の音。)

調弦ももどかしく、戸惑いながらも静かに弾き続ける大地のギターに、蓬生はそっと自分
のヴァイオリンの音をのせた。楽譜などはない。思いつくまま即興で、音で音に触れる。
強く深く艶やかで落ち着きのあるヴィオラの音とは違う、静かにもの悲しい、それでいて
人を恋うような熱のあるギターの音。
変わらないのは、その音の広さと心地よさ。受け止められ、支えられていると、心がほど
けていくような音色。
「……いい音だね」
大地もぽつりと言った。
蓬生を見ず、目はギターだけに向けられているのだが、口元には満ち足りた笑みが浮かぶ。
「甘くて、…とろけるような音だな」
弓を動かしながら、蓬生はくす、と笑った。
「榊くんは、いちいち表現がやらしいわ」
「変に邪推するからだよ。……君の音は甘い。…それはわかっていたけど、でもこんなに
素直にしみこんでくるとは思わなかった。……何か、……何だか」
大地は言葉を切った。何かをこらえるような顔をしている。
それが何なのか、蓬生にもわかる気がした。
蓬生の心にも、ふつふつと何かがこみあげてくる。千秋以外の人間で、こんなふうに感じ
るのは初めてだった。弾いて、音を合わせることが心地いい。快楽のための行為を交わし
ているかと錯覚する。
…今自分の音は、大地の心の素の部分に触れている。…そして大地の音も、蓬生の心の鎧
を脱いだ、一番芯のところに触れているのだ。
「……」
同じメロディを何度か繰り返し、飽きるほど弾いた後で、とうとう、ゆるゆると大地の音
が消えていった。蓬生もそれに合わせて弓を下ろす。
しばらく、軽い疲労と余韻に溺れて、二人とも指一本動かさなかった。
目を閉じると、今まで認めないようにしていた事実がそっと肩を叩いてくる。
……ああ。……俺、とうとう、落ちてしもたんやなあ。
認めたら、楽になった。自然と唇が微笑む。
「…今、…気ぃついたわ」
「…何?」
ぼんやりしていた大地も、ゆっくりと蓬生に顔を向けた。彼も穏やかに笑っている。
「君のこと、…好きになったみたいや」
「…そう?…それは光栄」
本気の告白なのに、返ってきたのは思いがけずあっさりとした言葉だった。蓬生は思わず
拗ねた顔になる。
「そっけないなあ。人が決死の思いで言うたのに」
大地はゆるりと額に手を当てた。困惑したのかとのぞき込むと、困惑とも少し違う。…大
地の目は、照れていた。
「だって、さっきとっくに言ってもらったよ。…ヴァイオリンで」
……!
「…好きだ。この音がほしい。俺ごと、この音を自分のものにしたい、…まるでそう言っ
てるみたいなヴァイオリンだった」
丸裸にされたような気持ちで、蓬生は柄にもなく耳が熱くなるのを感じた。大地はくすり
と笑ってギターを置き、たった今までギターのネックを抱いていた左手で、蓬生のうなじ
をなでた。
指が、耳の後ろからえり足まで、コードを押さえるように触れる。びくりと震える蓬生の
身体をなだめるように、左の頬に頬を寄せ、その耳にそっとささやく。
「俺のギターの音を、君にあげる。…だからいつか、君の三味線の音を、俺にくれないか」
…大地のヴィオラが律のものであるのと同じく、蓬生のヴァイオリンは千秋のものだ。
…けれど三味線は、ちがう。誰と合わせる音でもない。蓬生の音だ。大地はその音がほし
いと言う。
蓬生は、じわり、心の芯に埋み火が熾るのを感じながら目を閉じ、うっとりとつぶやいた。

「…ええよ。……あげる。……いつかそのうち、な?」

その日はきっと、そう遠くない。