想い出のアンダルーサ


大地はため息を吹き上げ、空を見上げた。
どうしても上手くいかないフレーズがあるので森の広場で個人練習をしていたのだが、煮
詰まってしまった気がする。何度弾いてもすらりと流れない。…どころか、だんだんだん
だん音が硬くなっていくような。

−…律が弾くと、あんなにきれいなフレーズなのに。

ため息をもう一つ、今度は下を向いて吐き出して、大地は気分転換することにした。
アンダルーサはギターではよく弾いていた曲だ。ヴィオラにはあまり向かない曲だが、自
己流でメロディだけを追い、弦の上に弓を滑らせる。
「……」
自然と背筋が伸びた。ささやくような箇所は静かなピッツイカートで、アルペジオは弾ん
で。少しずつ何かがほぐれていくようで、弓の動きのぎこちなさが少しずつ消えていく。
メインのメロディに戻ってきたときには、大地はすっかりくつろいで、ゆったりと弓を動
かしていた。
最後の一音まで気持ちよく弾ききって、弓を降ろしたときだ。
「ブラボー」
その一言と共に、思いがけない拍手が背後から聞こえた。
「……!」
ぎょっとなって振り返る大地の前に、見慣れない男が一人立っていた。学生ではない。年
は三十をいくつか出ているだろう。ゆるくウェーブがかかった髪を適当にまとめて、ラフ
な格好をしている。
「ヴィオラのアンダルーサは初めて聞いたよ。自己流か?」
「……はぁ」
大地の声に警戒を感じ取ったのだろうか。悪い悪いと男は屈託なく笑って、頭をかいた。
「いくらこの学校がオープンでも、見慣れない男にいきなり話しかけられたら驚くよな。
…怪しいもんじゃない…つっても、この見た目じゃ、カタギにゃ見えないか」
苦笑する彼に応じるように、大地も少し笑った。
確かにラフな格好で、勤め人には見えないが、この学校ではよくあることだ。音楽科の講
師陣は堅苦しいスーツなど身につけていないことが多い。着ていてもジャケットにループ
タイといった少しくだけたファッションだ。
「OBの方ですか」
大地が問うと、
「お、勘がいいね、おまえさんは」
男はまた目を細めた。
「当たり。OBで、高等部の音楽教師だったんだ。…久しぶりに学院に来たからちょっと
猫神様にあいさつでもと思ってここに寄ったんだが、おもしろいものが聞けたよ。これも
猫神様の御利益かな」
「……猫神様?」
聞き慣れない単語に大地が思わず復唱すると、今度ははっきりと男が破顔する。
「そう、猫神様さ。…猫にはひげがあるだろう?…だから弦楽器の神様ってぇことでな、
昔っからこの学院じゃ、猫を粗末には扱わない。誰かしら必ず世話する奴がいるんだ」
「…本当に神様なんですか?」
「そりゃあ俺に聞くことじゃない」
あからさまに不審そうな大地が面白いのか、男はくすくす笑う。
「信じるも信じないもお前さんの自由さ。……ただ、『信じるものは救われる』って言葉
はあるよな。ありゃ、けだし名言だと俺は思うぜ」
煙に巻くようなことを言って、ふと、彼は言葉を切り、まじまじと大地を見た。
「……先刻のアンダルーサといい、その普通科の制服といい、…お前さん、音楽の素養は
ありそうだが、子供の頃からクラシックをみっちり仕込まれた音楽科の生徒じゃなさそう
だ。…なぜヴィオラを?」
「…オケ部なんです」
手短にそれだけを答えると、男は半分わかったが半分わからない、という顔になった。説
明する義理はないはずなのだが、そのどこかぽかんと間の抜けたような顔を見ていると、
なんだかこのまま放置するのが申し訳ないようで、つり込まれるように大地は再び口を開
いた。
「俺の友人は、全国学生音楽コンクールのアンサンブル部門で優勝することを目標に、ず
っと練習を続けてる。…俺は、その夢を後押ししたいんです。…いや、ちがうな。…一緒
に夢を叶えたいんです」
…話しながら大地はふと、ああ、そういえばここだった、と思う。
…あの日、律の音を聞いたのもここだった。自分の運命がはっきりと動いた、あの瞬間。
「今の俺の実力じゃ、一緒に夢を叶えるどころか足を引っ張ってるだけなんですけど、…
でも、あいつの夢を一緒に信じ続ける自信はある。他の誰が諦めても、俺だけはあいつの
夢を笑わないし諦めない。……だから、練習してるんです」
「………」
男は黙ってじっと大地を見ていたが、やがてひどくしみじみとした声で、
「…なるほどな」
つぶやいた。
「吉羅が、今年はファータが静かで助かりますと言ってたのは、これか」
「……?」

−……ファータ?…静か?

ぽかんと目を見開く大地に、男は穏やかで優しい眼差しを向けてからそっと目を伏せた。
「普通科で音楽。強い信念。…さぞリリはご満悦だろうさ。お気に入りだろう」
一人言らしいつぶやきは低く静かで、大地にはよく聞き取れない。
「……?…あの…」
おずおずと問うと、男は少し慌てた様子で手を振った。
「や、すまん。…何でもない。…普通科とかヴィオリストとか、…お前さんを見てたら教
師をやってた頃のことを少し思い出したもんでな。気にしないでくれ」
片手で頭を掻きながら、思いがけず鋭い眼差しで彼はすっと大地に相対した。
「…話し相手になってくれた礼に、元音楽教師として一つアドバイスさせてもらおうか。
…ヴィオラをかまえてみな」
「……」
不得要領ながら、大地は言われるがまま、背を正してヴィオラをかまえた。男はまじまじ
と大地を見て、うん、と満足そうに一つうなずく。
「…ヴィオラを始めてから日が浅くて、クラシック音楽の素養もまだたりない。…それは
確かに、お前さんにとって不利な点だな。だが、熟練の演奏者でも喉から手が出るほど欲
しがるようなものを、お前は既に一つ持ってる。…それはな、大きさだ」
「……」
「背が高い、だけじゃなく体格もいい。腕も長い。おまけに姿勢がいい。腕の長さは弦楽
器を弾く上では長所だし、姿勢の良さは音の響きの良さにつながる。…だからだろうな、
さっきのヴィオラ、…とてもよく響いてたぜ」
ほい、もういいぞ、と言われてヴィオラを降ろす。疲れたかと問われたが、疲れるほど長
時間ヴィオラをかまえていたわけではない。いいえと答えると男はまたうなずいた。
「無理していい姿勢を取ろうと意識していないからだ。ヴィオラをかまえると自然と姿勢
が正されるんだな」
さっきのアンダルーサ、よかったぜ、と男はつぶやいた。
「静かなパートもあるし、繊細なピッツイカートもある。背が丸くなって音が縮こまって
もおかしくないのに、流れる音は雄大だった。…お前は自分に天から与えられた有利を、
もっと誇っていい」
そこで言葉を切り、彼は子供にするように大地の頭をわしわしと撫でた。突然のことで呆
気にとられたが、…不思議と、不快ではなかった。
「こんなところで一人で練習するくらい真面目で、全国大会優勝っていう友人のでっかい
目標を信じ続けられるくらい強い気持ちがあるなら、…大丈夫、お前はこれからもっと伸
びる」
「……」
「…一に練習、二に練習。…たぶん、耳にたこができるくらい言われてるだろう。それは
言われたとおりし続けなきゃならんが、できなくてもうつむくな。上を見て姿勢を正せ。
それだけで充分、お前さんの音は光るよ」
男の言葉は、偶然行きずりに出会っただけの後輩に向けたものとは思えないほど真摯で、
熱がこもっていた。その熱が、大地の心にすとんと落ちてじわりとあたたかな火を灯す。
「……はい」
思わず唇からまろびでた素直な返事に、男も、…大地自身も、はたと目を見開き、…どち
らからともなく、くしゃりと笑い合う。
「…よし」
ぽんと大地の肩を叩いて、彼はふと、何気ないそぶりで問うた。
「…なあ。……もしも、…もしもだぜ。…音楽の妖精が本当にこの学院にいるとしたら。
……お前だったら、何を望む?」
「…」
男はくだけた口調で、ふざけて聞いているようだ。…だが、その底に何か、何とも言いが
たい本気のようなものを感じて、大地はまっすぐに男を見返した。
男の問いへの答えは一つしかない。…迷いもない。
「律と一緒に、全国優勝を」
「…律ってのが、その友人か」
男は軽く眉を上げ、ふわっと笑った。
「…お前の願いは、叶うだろう」
その言葉はまるで預言のように確信的で、大地を少し、唖然とさせる。大地のその反応に
は気付いているだろうに、あえて言葉を足すことはせず、男はあっけらかんと手を振った。
「練習の邪魔をしたな、すまなかった。…それじゃ」
背を向けかけて、…だが、彼はもう一度振り返る。
「そうだ。…猫神様を見かけたら、親切にしてやるといい。御利益あるぞ。…経験者の保
証つき、だ」


あれから一年半。
夏の風がむっと熱く重く、森の広場を吹いて過ぎる。
大地は持ってきた猫用のドライフードをプラスチックの皿に入れて、いつもの一角に置い
た。…待っていたかのようにすぐに、でっぷりと太った猫が現れて、にゃあとも言わずに
食べ始める。
「…こんなとこで、猫に餌やっていいん」
背後から、咎めるような関西弁が聞こえて、大地は苦笑を浮かべながら振り返った。
「いいんだ。…こいつは猫神様なんだ。…弦楽器の守り神だよ」
蓬生は呆れた顔をして眉を寄せる。
「…そんなん、初めて聞いたわ。…猫が弦楽器の守り神様なんやったら、それの皮はいで
弦楽器にしてる日本人てめっちゃえげつないってことになるやんか」
蓬生の言い方に大地は思わず吹き出した。
「…確かに」
猫は黙々と食べて、どこかに行ってしまった。
「…猫神様に優しいして、…なんかええことあった?」
猫を見送って、大地がヴィオラを準備し始めると、蓬生は居座るつもりだろうか、傍らの
木陰に座り込み、幹にもたれる。
「…神様に願ったことは、叶うとしてもこれからのことだから、なんとも言えないよ」
調弦しながら大地は穏やかに応じた。
「…でも、…神様のおかげで、忘れられない出会いをした。…その礼のためだけにでも、
親切にしたいと思ってるよ」
「…それ、如月くんのことなん?」
大地は笑って、その問いには答えず、弓をそっと、弦の上に滑らせる。
奏でるのはコンクールのための曲ではなく、自分の気持ちを盛り上げるための一曲。

あの日奏でた、想い出のアンダルーサ。