あの遠い夏の日の思い出に


「みなとみらいに山下公園、中華街、元町通り……。…絵に描いたような横浜案内やな。
もっと他に変わったとこ連れてってくれへんの?」
突然横浜の観光案内をしろと言い出しておいて、あっさりとけちをつけてくる相手に、大
地は首をすくめた。
「どうせ君たちは毎年横浜に来てて、この街は見飽きているだろう。少々変わったところ
に連れて行っても『来たことあるわ』とかなんとか言われるのが関の山だ。…けどひなち
ゃんは、転校してきていきなりコンクールに選抜されて、毎日練習漬けでろくろく市内観
光もしてないはずだからね。今日は彼女優先で、オーソドックスなところを案内させても
らうよ」
「…いきなり選抜、なあ」
蓬生は薄く嗤いながらうっとうしそうに髪をかき上げた。
「あの子の実力がどれほどのもんかしらんけど、ぽっと来た子ぉを1stバイオリンに据
えて、しかも君がレギュラーのヴィオラやなんて、如月くんも冒険したもんやね。…とい
うか無茶苦茶や。俺らに勝つ気ないん?」
「……」
「……」
間があった。考えた後に返事があるかと蓬生は待ったようだが、
「……」
なおも大地が沈黙を返したので少々鼻白む。
「ちょお、何か言うてぇや、榊くん」
「君は俺の反応を楽しみたいだけだろう?…せっかく観光しているんだ。俺の言葉なんか
より横浜の街を楽しんでくれないかな」
「……。……さよか」
蓬生は鼻を鳴らした。
「…君、ほんま、俺の前では愛想ないなあ。外面の仮面くらい、いくつか持ち合わせがあ
るんやろ?」
「ちゃんと外面で対応しているよ。……いい人の仮面じゃないだけだ」
「…。気ぃ悪」
「お互い様」
大地はふっと笑った。
「……何。お互い様て」
「君だって、俺にはずいぶん直球を投げてくる。他の人間になら、嫌味もからかいも、も
う少しやんわり搦め手で来るだろう?…こう見えても俺だって、言葉の裏くらい読めるか
ら、もっと言葉を飾ってもらって構わないんだよ」
「……。君に含みのあること言うたら、裏の裏の裏まで読むやんか、めんどくさい。誰か
おって言葉を含まんならんときならともかく、君しかおらんときにそんな体力使てられん
わ。そうでのうても暑うてだるいのに」
ため息をついて、蓬生は空を見上げた。
「…ほんま、暑いなあ。……こんな暑い日に横浜におったら思い出すわ。青い帽子」
「……」
ちらり視線を流すと、大地は目を伏せ、口元で笑った。蓬生もやんわりと笑い返す。
「…帽子、返そ思てたのに、持ってくるん忘れたわ」
「…まだ持ってたのか。……捨ててくれてかまわないよ」
「せやけど君のんや。俺が勝手に捨てていいもんとちゃう」
「もう俺のじゃない。君に進呈したんだ、君のものだ。……好きにしていい」
「俺の好きにしてええんやったら、やっぱり君に返す」
言葉の応酬のあげく、ついにくくっと大地は笑い出した。
「律儀だな」
「取り柄やねん。……ああ、千秋が早よ来いて言うてる」
案内されているはずの千秋とかなでは、のんびり歩く大地と蓬生よりもずいぶん先に進ん
でしまっている。間を取り持とうとしたのか、中間地点で芹沢も少し困った顔だ。
「少し急ごうか」
足を速めようとした大地の肘に、蓬生がそっと手をかけた。
「……。……な、榊くん」
「何だい?」
大地は少し驚いた顔で振り返る。
「東金が呼んでるんだろう?」
「合流する前に、あの時の帽子の礼に、一言だけ忠告しといたる。……君、……星奏やな
いで、君、や。…今のままやったら勝ち目ないで」
「……っ」
「自分では勝利に執着してるつもりかもしれん。……けど、足りん。…君の中のどっかに
まだ、本気の執着をみっともないて恥じてる君がおる。…なりふりかまっとううちは、君
は誰にも勝てんで」
「……」
大地はまっすぐに蓬生を見た。蓬生も真顔で大地を見返した。
「……。性根据えや」
その声にからかいはなく、真摯だった。
「……敵に、塩?」
眉を寄せてぼそりと大地が問う。蓬生の真意を測りかねているのだろう。…蓬生はにやり
と笑った。
「言うとうやろ。…帽子の礼や」
その答えに、大地は眉を開いた。へにゃりとたれた目は、あの日と変わらない。
「…本当に律儀だな」
「忠告するんは今日だけや。…次はない」
「……。…わかった」
大地の返事に、蓬生は軽く目を見開いた。
「……わかってる、やないんやな」
「……?…ああ」
珍しく、蓬生の言葉の意図を測りかねている大地に、蓬生はうれしく笑う。
「知ったかぶりをせんのはいい傾向や。……せいぜい、あがいてみせてもらおか」
「……蓬生!」
向こうから東金が焦れて怒鳴る声が聞こえた。反射的に同時に首をすくめ、顔を見合わせ
てやんわり互いにひねた笑いを交わし、大地と蓬生は足を速めた。