暗夜行


熊野の海は、夜はただ闇に沈むものとばかり思っていたが、水平線を見はるかせば、ちら
ちらと豆粒のような灯りが動いている。…誰か、灯りをともして漁をする者でもいるのだ
ろうか。
柊はぼんやりと磯辺にいた。…静かに背後の気配を探りながら。…が、いつまで待っても
その気配は動かない。ため息と共に、柊は彼を促した。
「…いい加減、出てきてください、忍人。…私に何か用なのでしょう?」
気配の主は、気付かれ促されてもまだしばらく動こうとしなかったが、やがてしぶしぶと
いった体で姿を現した。
「…用ではない」
硬い声は冷ややかにそう告げた。
「…お前がどこかへ行くのではないかと思った」
「それで後を?……ばかばかしい。今更私がどこへ行くと言うんです。陛下や皇子の首を
みやげに、常世に寝返るとでも?……そんなことをすれば、あなたや風早の刃に貫かれて
命を落とすだけでしょう。……私はただ、夜の散歩を楽しもうと思っただけです」
「…」
忍人は答えない。
「信じてくれないのですか」
「…」
忍人はなおも黙りこくったが、やがてぽつりつぶやいた。
「…昔、俺は油断した」
「…?」
「…お前と羽張彦が何か企んでいる気配に、俺は気付いていた。俺だけじゃない、風早だ
って、道臣殿だって気付いていたと思う。……だが、俺たちは油断した。…いいや、信じ
ていた。…何があっても最後には必ず、俺たちにだけは打ち明けてくれると。…だがお前
達は何も語ることなく出奔し、結果、羽張彦と姫は戻らなかった」
「…」
ふん、と忍人は鼻を鳴らして冷たく笑った。
「今思えば、何と呑気で甘い考えだったのかと、自分でも反吐が出る思いだが」
「…忍人」
忍人はようやく、その黒曜石のような瞳をまっすぐに柊に向けた。糾弾の光を宿して。
「今のお前からは、そのときと同じ匂いがする。黙ってどこかへ行ってしまいそうな気配
を感じる。…だから俺は、お前に用心している。……それだけだ」
「……忍人」
柊はゆるゆると首を横に振った。
「かつてのことは、…確かにあなたたちの信頼を損なう行為でした。あまつさえその後私
は常世の軍門に下った。あなたに信用してもらえないのは我が身から出た錆とわかってい
ますし、…だからこそ、二度とそんなことはしないと誓います。…もう決してあなたに黙
ってどこかへ行ったりはしません」
「空言はよせ」
「空言などでは」
「…気付いていないか。…お前は俺をたばかるとき、必ず真面目な顔をする」
「…!」
すぱりと目の前で刀を閃かされたような思いがした。
「いつもは薄笑いを浮かべているのにだ。たぶんその方が、俺の信用を取り付けやすいと
無意識に思うのだろう。…だが、だからこそ俺はもう、真面目な顔のお前は信用しない」
「……」
柊はふうと一つため息をついた。…とたん、彼のまとう雰囲気は一変する。浮かべられた
薄笑い。あざけるような呆れているような顔。
「…いつのまに、そうも賢しくなったものやら」
急激な柊の変化に、忍人は動揺をみせなかった。
「お前達がよってたかって俺を教育したんだ。自業自得だ」
「…かもしれませんねえ」
肩をひょいとすくめて、柊はその隻眼で忍人をのぞき込んだ。
「…で?…詰まるところあなたは、どうしたいのです?いつもいつも私について回るわけ
にもいきますまい」
「確かに。……では問うが、俺が聞くことにお前は正直に答える気はあるか?」
柊は吹き出した。
「問い返しますが、忍人。…正直に言いますよ、と私が答えたとして、それが既に私の嘘
ならどうするのです」
「……」
けんもほろろな目付きで睨まれて、わかった、わかりました、もうまぜっかえしません、
と柊は降参の印に両手を挙げた。
「仕方がありません、今日だけ、正直に答えてあげましょう。……でも、今日だけですよ。
…何が聞きたいんです」
「今、お前が何を企んでいるのかを」
柊はゆるりと首を横に振った。
「今は、二ノ姫にいかにして中つ国を取り返していただくかで頭がいっぱいです。他のこ
となど考えてはいません」
「では、その先は」
「……先?」
柊は少しどきりとした。
「国を取り返したその先だ。二ノ姫が中つ国を取り返し、玉座につく。…そのときお前は
どこにいる?」
…忍人は、繰り返すアカシヤなど何も知らないはずだ。宮を取り返した後、柊が消えるこ
となど思いもよらないはず。…なのになぜ、こうも確信的に問うのだろう。
「……」
「答えられないのか」
「…というわけではありませんが。…あなたも忘れたことはないでしょうが、私は裏切り
者ですよ。戦時ならともかく、平時に私のような者を宮中に置いておきたいとは誰も思い
ますまい」
「二ノ姫に常識は通用しない。もしお前を排除するならもうとっくにそうしているだろう
し、あの場でお前を受け入れた時点で、姫はお前を許している。戦の後、お前を宮中に入
れることにためらいはあるまい」
「姫になくとも私にあるのです」
「…っ」
忍人の言葉が終わるやいなや柊は切り返し、その言葉に忍人はぐっと詰まった。
「姫がいかに私をかばってくださろうとも、私の過去を知る者は皆私を裏切り者と呼ぶで
しょう。何より私は星の一族の人間です。星の一族の人間は、出自を知られていないなら
ばともかく、知られている場合は長く宮中にいるべきではないのです。不確かにせよ、未
来を視る者がそこにいれば必ず、平時の政は乱れます。…そういうものです」
「……」
「…ですから。…姫が橿原宮を取り戻し、その治世が安定すれば、私は宮を去ります。あ
なたの予感がそういうことなら、その予感は当たっていますよ、忍人」
「……」
忍人はずっと黙りこくっている。
「…ですが」
柊は忍人の剣幕につられてうっかり浮かべてしまった厳しい表情を、再び柔らかな笑顔で
覆った。
「約束しましょう、忍人。消える前にあなたにだけは、一言言い置いていきましょう。…
あいにくと、行く先は言えません。…けれど行くのが今日なのか、明日なのか、……せめ
てそれだけでも」
「…行くな、と、…もし俺が言ったら」
「…言いませんよ、あなたは」
柊は笑った。
「あなたは頭がいい。…私がさっき言ったことの意味を、あなたは理解しているでしょう。
未来を識る者は、宮にいてはならないのです」
「……理解は出来る」
押し殺した声がつぶやく。
「……だが、行くな」
黒い澄んだ瞳を見開いて、忍人は柊に迫った。
「…もう、どこにも行くな、柊」
胸が詰まった。…はい、と言いたかった。……けれど。
「残念ですが忍人。…それはできません」
「未来を視なければいいのだろう。裏切り者と呼ぶ声には耳を塞げばいい」
「忍人」
たまらず出た柊の声には、ぴしりとむち打つような響きがあった。はっと忍人が肩をふる
わせる。柊は静かな笑顔をやっとのことで保って、…ひそり、忍人に顔を近づけ、ささや
いた。
「…私を揺らさないでください。お願いです」
「……」
忍人が、ぎり、と唇を噛むのがわかった。
「…お前は、馬鹿だ。…柊」
子供の時のような悪態が愛しかった。
「…そうですね。…確かに」
「自分でわかって認めているところがもっと馬鹿だ」
「ええ、はい。…あなたの言うとおり」
「…柊っ」
柊は笑って、とんとん、と子供にそうするように忍人の背を叩いた。
「…さあ。…怒るのはその辺にして、帰りましょう。私たちの船へ。…いくら温暖な熊野
といっても、秋の夜は冷えます。君が体調を崩すと、皆が心配する」
「…変にいたわるな、気味が悪い」
「ひどい言われようですねえ」
ぷいと忍人は柊から顔を背けた。
「…先に行け、柊。後ろからついていく」
「消えぬように見張りですか?今はどこにも行かないと誓ったばかりなのに」
「それでも、…振り返ったらお前がいないかもしれないと、…そう思いながら歩くのはご
めんだ」
「…」
柊は小さくため息をついた。
「…では、手を」
「……はあ?」
「手をつないで帰りましょう」
「何の冗談だ。師君の屋敷にいた頃でさえ、そんな子供じみたことは…」
「ええ、しませんでしたね。…あの頃のあなたは不安を知らなかった。恐怖を恐れなかっ
た。…でも、今はちがう。……そうでしょう?」
「……」
「手をつないで一緒に帰りましょう。私はここにいます。……今は」
それでもためらう忍人の手を無理にとって、柊は歩き出した。
冷えきって冷たい、かたい刀のタコのある手。……愛おしい手。
観念したのか忍人も、きゅ、と柊の手を握り返した。

空と海と山の区別がつかないほどの闇の中、互いの手の温もりだけをただ信じて、……歩
く。