青い帽子 イベントは港湾に沿って伸びる細長い公園の端から端までを使って行われているようだ。 土岐と東金と八木沢の三人の子供達は、つらつらと会場のアトラクションを眺めながら歩 いていた。 星奏の人達に勝負をふっかけるのはもう厳禁、とばかりに、八木沢は東金の服の裾をつか んで離さない。東金は嫌がって何度か脱走を試みてはいるのだが、八木沢の方もそう何回 も逃してはならじと必死だ。 最初の内こそ、その攻防を面白おかしく眺めていた土岐だったが、少しずつ少しずつ二人 の声が遠くなりはじめ、目は開いているはずなのに目の前が暗くなり。 −……あかん。……やばい。 ちょお待って、と、二人に声をかけたいのだが声が出ない。 −…暑い。暗い。……くらくらして、目ぇ回る……。 しゃがみ込もうとした時だ。 「…大丈夫か?」 誰かにがしと右腕を掴まれた。 −…誰や、これ。 意識が飛ぶ寸前だったが、腕を掴まれた感触のおかげでかろうじて正気が残る。ただ、ぼ やけた目ではつかんで立たせてくれているのが誰かはわからない。かろうじてその誰かの のジーンズだけが見えている。 −…千秋やない。…八木沢くんともちがう。…一瞬聞いただけやけど、声変わりしてへん 声みたいやったし、掴まれてる腕の角度からしても小学生くらいやろ。……せやのに、変 やな。……何か、病院の匂いする、こいつ。…消毒薬の匂い。 「……蓬生!」 そのとき、東金の声がした。駆けてくる足音も二つ聞こえる。…その足音はしかし、寸前 で止まった。 「……誰だ、お前」 警戒心露わな東金の声。 「千秋、そんなことより土岐くんが」 諫めるような、心配そうな、八木沢の声が後を追う。 「…っ、蓬生っ」 腕をつかむ力が変わった。東金の匂いがする。背中を撫でているのは八木沢の手だろうか。 土岐は安堵して、体重を東金に預けた。 「熱射病かもしれない」 そのときもう一度、助けてくれた誰かの声がした。 「ここでこうしてちゃ、余計に身体に障る。イベントの救護センターがあるから案内する よ」 …誰かの言葉の途中で、土岐はゆっくりと意識を手放した。かすかに記憶に残るのは、両 側から支えられて自分の身体がずるずると動き始めたことだけだった。 「……ん」 次に目を開けると、テントの中に寝かされていた。すぐ横にテントの幕があり、その向こ うはもう陽光まぶしい真夏の炎天下なのが、触れる布の熱さでわかった。 ゆっくりと首をめぐらせると、枕元に心配そうに二つ並んだ顔が、一瞬で喜色を爆発させ る。 「目が覚めたか、蓬生!…気分は?」 「……んー」 うなるととたんに東金の顔が曇る。 「……辛いのか」 そんなことない、と言いたいのだが、東金は土岐の返事を待ってはくれなかった。 「悪かった。俺があちこち引っ張り回したせいでお前をこんな目に遭わせて。お前の体調 のことをもっと考えれば良かった。今日はもうホテルに帰って休もう。それから…」 「…ちょっと待って、千秋。…目が覚めた早々、矢継ぎ早にそんなことを言われても、土 岐くんがついていけないよ」 やんわりと八木沢が諫める。…そして、ペットボトルにストローをさしたものを土岐に差 し出した。 「スポーツドリンクだよ。…甘いのはあんまり好きじゃないかもしれないけど、ゆっくり でいいから、たくさん飲んで」 「……うん」 身を起こさずに首を傾けただけで飲めるよう、八木沢がペットボトルを支えてくれている。 とろとろとストローでスポーツドリンクを吸いながら、土岐はゆっくりと聞いた。 「……俺、どんくらい寝てたん?」 「そんなには。…たぶん三十分くらいかな。…もうちょっとここで休ませてもらった方が いいと思うよ」 「ホテルにはタクシーで帰ればいいけど、この公園の中からタクシーを拾える場所に移動 するまではどうしたって歩かにゃならんしな」 「…わかった」 土岐は少しストローを口から離した。テントの隅っこにベッドがしつらえてあるせいで、 一目でだいたいテント内は見渡せるのだが、中にいるのは、東金と八木沢を除けば、運ば れてくる人も忙しく立ち働く人も皆大人ばかりのようだ。 「……なあ。…さっきの子ぉは?」 東金と八木沢は顔を見合わせた。 「もう、どっかいった」 そっけなく東金が言うと、彼を肘でつつきながら八木沢が言葉を添える。 「ここについてすぐ、ここの人に僕たちのこと頼むって言い置いて帰っちゃったよ。…僕 らもお礼を言いそびれてしまったから、気になってるんだけど」 「……ふうん」 自分から聞いたくせに、土岐の口から出たのが気のない声だったからだろうか、八木沢が 少しぽかんとした。それを見て土岐が曖昧に笑うと、困ったような優しい笑顔で笑い返し て、もう少し眠るといいよ、と勧めてくれた。暑さでぼんやりしていると勝手に解釈して くれたようだ。 −…気になったんは、助けてもうたのにお礼も言えんかったからやのうて、病院の匂いが したからや、言うたら、八木沢くんはどない思うやろ。 「……」 土岐もずっと、薬や消毒薬の匂いが消えない子供だった。今でこそ、元気はつらつとまで は言えないものの、人並みの生活を送れるようになったが、それでもやはり、病んだ人や 病院の匂いはひどく身近で。 あの少年からは、病の匂いこそしなかったが、明らかに病院のような薬品臭がしていた。 それが気になって仕方がなかった。 −…なんで病院の匂いがしたんやろ。 土岐がぼんやり考えていると、受付のところで「あら」と女性の声がした。振り返った東 金と八木沢が同時に、 「あ」 と声を上げ、八木沢が、 「先刻の」 と付け加える。 土岐も、二人が見ている方へ首をめぐらせた。 立っていたのは、健康そうな肌にくるくるやわらかそうなくせっ毛の少年だった。年はや はり自分たちと大差なさそうだ。彼がすたすたと土岐のベッドへ近づいてくると、やはり ふわりと病院の匂いがした。けれど、はっきりした意識でまっすぐに見た彼は、とてもす こやかで伸びやかで、病の色など毛ほどもない。そのことに、かすかな羨望と大きな安堵 を感じる。……それが誰であれ、病にとりつかれない方がいいに決まっている。たとえ行 きずりの見知らぬ他人であっても、だ。 彼は土岐の目をじっと見て、 「大丈夫か?」 と問うた。 「……」 土岐があごだけでうなずくと、まだあんまり大丈夫じゃなさそうだな、と口の中だけでつ ぶやき、 「ここからはどうやって帰るんだ?」 と、これは、東金と八木沢に問う。 「道に出たら、ホテルまでタクシー拾う。心配いらん」 てきぱきと東金が言うと、そうか、とうなずいて、 「じゃあ、タクシーを拾える道まで出る間だけでも使ってくれ。俺の使い古しだけど、こ の会場に帽子を売ってるところはたぶんないから」 そう言って彼が差し出したのは野球帽だ。 「…え、でも」 「いや、それは」 枕元の二人が顔を見合わせる。土岐はゆっくりと唇を引いた。 −…八木沢くんは遠慮しいや。千秋は、自分の趣味に合わん口出しは嫌がる。…せやから、 二人とも受け取ることをためろうてる。……せやけど。 「おおきに、ありがとう」 −…ぶっちゃけ、今の俺にはその好意は必要や。 「助かるわ」 言いながら土岐が手を差し出すと、彼は帽子を渡してくれた。受け取ってもらったことで 安心したのだろう、少しだけきりりとまなじりが上がっていた目がふわっとやわらかく垂 れて、彼は初めて笑顔を見せた。 「関西から来たのか?…じゃあ、趣味に合わないだろうけど、とりあえず、巨人じゃない から」 「…?」 土岐は、帽子のつばの上のマークを見た。八木沢も東金ものぞき込み、意味を悟って三人 で小さく苦笑する。帽子は横浜ベイスターズのものだったのだ。 「じゃあ、俺はこれで」 三人でくすくす笑っている間に、彼はまたさっと座を立っていってしまった。 「……あっ」 八木沢の呼び止める声もむなしく、テントの向こう、眩暈がしそうな陽光の中に、あっと いう間に姿を消す。 「帽子までもらったのに、名前さえ聞いてない。…何かお礼もしたかったのに」 土岐は肩をすくめる。 「…せやね。…お礼はしそこねたけど、でも、名前はわかるで」 「……?」 土岐は笑って、きょとんとしている二人に、青い帽子のつばの裏を指した。そこには、黒 いマジックで大きくはっきりと、「さかきだいち」と書いてある。 「…縁があったら、また会えるわ。……礼は、そんときする」 口では「縁があったら」と付け足したものの、本当は、根拠もなくきっとまた会えるはず と思っている。そんな自分の思いこみがおかしくて、ほころぶ顔を帽子で隠し、土岐はま た枕に頭を預けた。