アランフェス協奏曲第二楽章 ケーキの礼がしたい。 律がそう言いだしたのは、彼の誕生日の翌日だった。 「…は?」 俺は一瞬ぽかんとしてから、首をゆっくり横に振った。 「…いいよ。…あれは祝いだし、半分嫌がらせでもあるし」 「だが、お前の心づくしだったことに変わりはない。…何も返礼しないままでは俺の気が 済まない」 「…」 俺は考え込んだ。 それじゃあ、俺の誕生日を祝ってくれよ、と言えばことは簡単にすむのだが、あいにく俺 は年末も押し迫った12月29日に生まれている。冬休みに入っている、どころか、地方出 身の律は既にその頃帰省しているか、準備で慌ただしくしているかだろう。そんな時期に 俺と一日一緒に過ごして誕生日を祝ってくれとは言いにくかった。 苦し紛れに、 「コーヒーを一杯おごってくれればいいよ」 と言ったら、律は承伏しかねるという顔で眉を曇らせた。 たぶん、俺の言葉があまりにもとってつけた風で、律の申し出を適当にかわそうとしてい るのがありありと見えたからだろう。 せっかく祝ってくれると言っている律の気持ちを、不快にさせるようなことはしたくない。 何なら俺も律も納得できるだろう。 腕組みして考え込みかけてふと、ひらめいたものがあった。 「…じゃあ、俺に一曲何か弾いてくれないか?…ギターの曲がいい。クラシックギターの 曲を、律のヴァイオリンで聴いてみたい。…アレンジは好きなようにしてくれてかまわな いから」 律がはっとした顔になった。じわりとうれしさが頬ににじみ、だが一見はいつもの生真面 目な顔のまま、どこかおずおずと、本当にそれでいいのか、と聞いてくる。 「ああ、それでいい。…いや、それがいい」 俺がそう答えると、はっきりうれしそうな顔になった。自分の得意分野だからだろう。明 日まで待ってくれ、選曲して練習してくる、という声も静かながら弾んでいて、俺の心も なんだかふわりと浮き上がるようだった。 翌日の昼休み、屋上に俺を呼び出した律は、静かに、だが情熱的にある曲を奏で始めた。 哀愁を帯びた曲調、何か胸に迫ってくるような音色。 「…律、これは…」 思わず俺はつぶやく。 律はかすかに視線を上げたが、演奏中だからか、何も言わない。知らないはずはないだろ う、という顔だ。 …確かに、知らないはずはない。クラシックギターを少しでもかじった人間なら誰でも聞 いたことがあるし、演奏したいと思ったこともあるだろう。 アランフェス協奏曲。有名なギター協奏曲だ。特に、律が選んだ第二楽章は、この部分だ け単独で演奏されることも多い。 「…」 俺は曲に集中しようと目を閉じた。…けれど俺の努力を嗤うように、心はざわざわと騒ぐ。 …この章が、別名「恋のアランフェス」と呼ばれることを知っていて、律は選んだのだろ うか? 律がその別名を知っていても不思議はない。知っていて、けれどそんな他意なく選曲して もおかしくない。愛や恋と名のつく曲はたくさんある。愛のあいさつ、愛のよろこび、愛 のかなしみ。どれも有名な曲だ。親しみやすく美しい旋律だ。何気なく選曲することも多 いだろう。 …そうだ、きっと他意はない。…はずだ。 ……だが。 「…」 慣れない曲だからか、手元を確認しながら伏し目がちに弾く律が、時折ちらりと俺を見る。 俺が楽しんでいるか、聞き入っているか、確認するように。 …その眼差しでさえ、俺は誤解しようとしてしまう。彼が何か俺に伝えようとしているの ではないかと、声なき彼の声を探してしまう。眼差しの中に。旋律の中に。 律が選んだのがこの曲でなくても、俺はそんな衝動を覚えただろうか。 −…。 俺の中に答えが定まらないうちに、曲は静かに終わりを迎えた。屋上を吹きすぎる風に吹 き飛ばされるように、ゆるりと音が消えていく。 「……ありがとう、律」 弾き終えた律に俺が訥々と礼を言うと、何も言わず口元だけで静かに笑って、律はヴァイ オリンをケースに収めた。 ちまりとケースに収まった小さな律の分身は、もう何の音色も響かせてはいないのに、せ つないフレーズだけがいつまでも俺の中から消えなかった。