嵐 ガタガタと窓が激しく揺れている。外は風が強くなってきたようだ。今日の晩から明日に かけて、強い低気圧が通るという予報だった。おそらくは雨に、もしかすると嵐になるか もしれない。…明日が決勝という晩にはある意味おあつらえ向きの、かなりドラマチック な天候だ。 目の前にぽつりと携帯が転がっている。こんな夜にかかってくるはずもないし、こちらか らかける用事もない。それなのに目が離せないでいる自分自身に、大地は小さくため息を つく。 この天候を懸念して、今日は律が早めに全体練習を切り上げたので、まだ夕食までには少 し時間がある。大地の家は両親が共働きで、帰ってくるまでは飼い犬のモモと二人(厳密 には一人と一匹)きりだ。おとなしいモモは大地のヴィオラの音に文句は言わないし(言 いたくても言えないだけかもしれないが)、家は防音を考慮した作りなので、自室で少し 練習する分には遠慮がいらない。ただぼんやりと明日のファイナルのことを考えているよ りは、もう少し弾きこんだ方が気持ちが落ち着くかと、大地がヴィオラを手にとって調弦 しようとしたとき、電話が鳴った。 特別なメロディは設定していない。しかし、不思議な確信を持って大地は携帯を手にとり、 予想通り、画面にここ数日ですっかり見慣れた名前を見つけて薄く笑った。…もちろん、 電話を受ける手に迷いはない。 「…もしもし」 「今、家?」 もはや、俺やけど、すら言わない蓬生に大地はくっと小さく喉を鳴らした。もっとも、自 分だって名告りもせずにもしもしというだけなのだからお互い様だ。 「家だよ」 答えてから気付く。 「そっちはずいぶん静かだな。うちはひどい風だよ」 寮と学校、そして大地の家はほとんど離れていない。だからこそ大地も寮に入り浸ってい るのだが、その距離を考えると、蓬生の背後の静けさはいかにも妙だった。 「寮の建て付けがそんなにいいとも思えないけど」 もしかして東金が寮にはいるとき、内装だけじゃなく建て付けまで直させたのかい、と問 いかけて、さすがに馬鹿馬鹿しいとのみこむ。いくらなんでもそこまではしないだろう… …と思う。……相手が相手なので、完全には否定しきれないが。 「…どこにいるんだい?」 「寮にはおらんよ」 さらりと蓬生は応じた。 「今、スタジオや」 「スタジオ?」 「そう。…ほら、駅前の。こんな天気やからかな、結構部屋は空いとった。飛び込みでも 余裕でとれたわ。……来る?」 「……っ」 その誘いの意味がとっさにわからないほど鈍い大地ではなかったが、即答は出来なかった。 鋭く息を吸って反応したものの返事はしない大地に、電話の向こうで蓬生も少し黙る。… だがらちがあかないと思ったか、改めてゆるゆると誘いをかけてきた。 「君さえよければ、最後のおさらい、聞いたげてもいいで。雨になるかもしれん、こんな 天気やから、大事なヴィオラ濡らしたないって言うんやったら、別に来んでもええ。適当 に、一人で弾いて一人で帰るわ。……どうする?」 再度の誘い。大地は笑う。先刻、即答こそ出来なかったが、元より否やを唱える気などな い。 「行くよ。もちろん」 不意に蓬生がくすくすと笑い出した。 「…何」 「今、ほっとしとんちゃう?…自分から誘いをかけんですんで」 大地は一瞬目をぱちくりさせたが、片目をすがめるや即座に切り返す。 「それで土岐は、『負けた』とでも思ってると?」 「いいや。俺って優しなあ、と思てる」 負け惜しみでもなさそうなあっさりした言い方に、大地は笑った。 「…確かに」 電話を切って手早く支度し、大地は家を出た。自転車を使えば駅前まですぐだが、ヴィオ ラを持つときは自転車には乗らない。雨が降りそうで風が強いこんな天気ではなおのこと だ。 荷物を抱えて歩いて二十分弱。たどりついたスタジオで、名前をもとに彼のいる部屋を探 すと、蓬生は大地到着までの無聊を慰めるためか、スタジオに置いてあるピアノをぽろり ぽろりつまびいている様子だった。 ドアの外からでは音は聞こえないが、ふと、…あのどこかほの暗い、それでいて妙に可愛 らしい、彼がアレンジした「人形の夢と目覚め」を思い出し、大地は眉をひそめて笑った。 「……」 深呼吸一つしてノックする。はっ、と蓬生がこちらを見た。 視線で招かれ、ドアを開けると、 「思たより遅かったやん」 からかうように言われて大地は首をすくめた。 「ひどい風なんだよ」 「雨は?」 「まだ降ってない」 応じながらヴィオラを出して準備を始める。蓬生はピアノの椅子にかけてゆるりと足を組 んだ。 「準備できたらすぐに始めよか」 「ああ。……威風堂々、フィレンツェの思い出の順で弾くよ。続けて聞いてくれるかな」 「かまへんよ。まとめてけなしたるわ」 その一言にくっと喉を鳴らして笑ってから、大地は姿勢を正し、弦にそっと弓を当てた。 −。 ヴィオラが深い音を響かせ始める。蓬生が真顔になり、腕組みをしてあごに指の節を当て た。ここにはヴィオラの音しかないが、大地の耳の中では仲間の音が重なっていく。その 音色を追い、自分の音を重ねながら、大地の脳裏には何故か花火が閃いていた。 どん、と、…腹に響く音。人々の歓声。夜空にひらめく閃光と、咲き誇る大輪の赤や青の 光の華。……群がる人々に背を向けて、蓬生と二人、静けさと闇を目指して歩いた道。 あの日から始まった。…いや、もしかしたらもっと前から、…互いに糸をかけ、網を張っ て、つながることを目指した関係。素直になれなくて、かまをかけて、相手の言葉の裏ば かり読んで、さぐりあって、あばきあって。 威風堂々を弾き終える。続けて弾くと前もって宣言していたからだろう、蓬生は何も言わ ない。大地は息を整え、短くふうっと息を吐いて集中し、…改めてヴィオラの弦をおさえ た。 …思い出をよすがに書かれた曲が、どこかほろ苦く大地にせまる。 たったの十日。長く見ても二十日。この夏の日々は、彼の思い出にすら残らないかもしれ ない。……それが当たり前だと考えかけて、大地は胸を刺すちくりとした痛みに眉をしか めた。 つながることを望んでおいて、離れることを当たり前だと容認する。そんな自分を奇妙に 思う。 −……俺は、…土岐とどうなりたいんだ。 最後の音が消えていく。…完全に消えた瞬間、ふう、と深く息を吐いたのは、大地ではな く蓬生だった。 「…まあ、及第点はあげられるけど、最後としては物足りん、なあ」 「……」 無言で、問いかけるように蓬生の目を見ると、蓬生は一瞬不思議な色の目で大地を見た。 …すぐに、淡々と、それでいて矢継ぎ早に指摘し始める。 「威風堂々の前半、前よりテンポ早いな。セカンドヴァイオリンは弟くんやったか?…つ られてんちゃう?部長さんが旋律とるんやったら、全体のペースを保つんは内声部の君の 仕事や。しっかり、あの子の手綱締めや」 「…ああ。…心がける」 「フィレンツェの思い出の方は音が時々揺れる。こないだまで、そんなことなかったのに な?…これで終わりや、思たら心が折れるんかな」 「…そんな」 「そんなことない、言うんやったら、…迷わんと弾き。……俺に言えるのはこんなことく らいや。……最後やからかな、精神論ばっかりになったなあ」 くすくすと笑う蓬生に、大地は何か言い返したいと言葉を探して、…結局言えたのはこん な一言だった。 「…先刻から何なんだ、終わりとか、最後とか、…そんなことばっかり」 「せやかて終わりやろ。…このコンクールが終わったら、君はヴィオラには手も触れん受 験生活に突入や」 ぐ、と少し詰まる。 「……全く触れないわけじゃ…」 反論は弱かった。にやり、蓬生は笑う。 「少なくとも、ヴィオラ教師はもういらんやろ?」 その言葉が本当に言いたいことは、痛いほどわかって。 「君だって神戸に帰れば遊ぶものはいくらでもある。…旅先で買い求めたおもちゃなんか もう用済み、……そういうことかい?」 大地の強がりを、蓬生はどう聞いたのだろうか。…腕組みをほどき、彼はおもむろに大地 の胸元あたりを指で指した。 「…なあ。……何か勘違いしてるんちゃう?」 「……?」 「終わりやと言うてるんは君の音やで、榊くん。君の音色が言うてるんや。終わりや、終 わりや、って、……ずっと」 「……っ!」 虚を突かれた顔の大地を見て、蓬生は立ち上がった。靴音を高く立てて数歩近づき、ぐい、 と大地の顔に顔を寄せる。そして、のけぞろうとする大地の体勢を笑う。 「わかっとったけど、君、ほんまびびりやな。……俺から逃げることばっかり、考えとう やろ」 「……」 大地は唇を噛んだ。 「俺もどっちか言うたら去る者は追いかけたない方やし、気持ちはわかるけど、そこまで 先手打って逃げられると、ちょっと追いかけていじめたろか、思うわ。……それとも、俺 にそう思わせるんが君なりの駆け引きなん?」 「……」 何も言わない大地をつまらなそうに見て、蓬生は少し体を離した。 「……ま、逃げてく君を追いかけるほどの執着はないんやけどな、残念ながら」 大地の顔が、白くゆっくりと諦めに傾く。……諦めきるその寸前、ふっと油断した大地の 気配を蓬生は見逃さなかった。…手を伸ばしてあごを掴み、強引にぐいと口づける。 「……う」 ごくりと大地の喉が鳴った。 さんざん唇を蹂躙してから、ふいと蓬生はまた大地を突き放す。よろけかかってピアノに すがり、 「……と、き」 かすれる声で名を呼んだ。 見返してくる瞳はその言葉ほどには冷たくなく、…むしろどこか甘く優しかった。 「…追いかけはせん。……けど、俺は君のこと、ただのおもちゃとも思ってへんで」 「……」 「本気、見せてや、榊くん。逃げんとまっすぐ俺のとこ来てや。……俺はちゃんと、君に 本気見せたで」 その言葉は意外だった。 「……え?」 ぽかんとする大地に、蓬生はどこか決まり悪そうに笑ってみせる。 「…ここで君を待っとった。俺から君に電話して呼び出した。……明日で最後、には、せ んつもりやった」 ぽつぽつともたらされた説明に、ふっと、…身体が震えた。身体を震わせながら背筋を走 ったのはうれしさ、だったと思う。 「なあ、榊くん。…ほんまのとこ教えてや。…俺とつながったこと、これで終わりにした いん?したないん?」 また蓬生の手が大地に伸びた。人差し指であごの線をたどり、おとがいから喉へ、ゆっく りとなぞって鎖骨に触れ、鎖骨と鎖骨の間のくぼみで止まる。第一ボタンを外した大地の シャツの前立てに中指や小指をかけて、ボタンを外すようなそぶりを見せて、…けれど、 指は動かさず。 「今ここで君の身体にそれを聞いてもええんやけど」 とろりと見つめる眼差しを、大地は逃げずに見返した。…背筋に残るうれしさが、ようや く大地に腹をくくらせた。 察してか、どこかうれしそうに蓬生も笑う。 「でも、そんな即物的なことつまらんわ。せっかくここまで楽しんできた遊びやのに。… …せやから」 蓬生は大地からゆるりと離れた。向き合い見つめ合い、…挑むように唇を三日月の形に整 えて。 「答えは、明日聞くわ。ステージの上で、君の音で聞かせてもらう。君がこの遊びを終わ りにしたいのか、どうか。……どこまで、俺に本気なんか」 「…土岐」 「…ここまで言われて、まさか逃げたりせんよな」 大地の唇もゆっくりとつり上がる。 「……逃げないよ」 きらりと、眼鏡の奥の蓬生の瞳が光る。 「言うとくけど、揺れてぼろぼろになった演奏では、俺のことは引き留められんで」 「言われなくてもそれくらいはわかってるさ」 「口だけでないことを祈ってるわ」 「口だけだと、君を引き留められないんだろう?」 「……当たり前や。…それに、天音に負けるようでもあかんで。準優勝では俺を手に入れ るには役不足や。きっちり優勝してもらわんと」 大地は、ふと笑った。余裕を含んで穏やかに。 「……忘れてないか」 「何を」 「……俺の教師は、君だよ」 「……」 蓬生は一瞬目を見開いて。 「…せやな。…当然優勝や」 応じるように鮮やかに笑った。 風が逆巻く嵐の渦が全てを飲み込んでいく。…全ては、明日。