有明の月

那岐は大きく伸びをして深呼吸した。夜明け前の空気を胸に吸い込むと、その清冽さにす
うっと体が落ち着いてくるのがわかる。
もう一度深く息を吸おうとしたとき、耳がかすかな音と風の動く気配を感じた。
堅庭の扉が開いたのだ。
かすかな予感と共に振り返ると、やはりそれは忍人で、少しうつむきながらゆっくりと庭
に入ってくるところだった。
外の風を感じてゆるりと顔を上げた彼が、薄闇の中佇む那岐を認めたのがわかる。その肩
が驚きでかすかに震え、彼は不意に足を速めてつかつかと近寄ってきた。
「…那岐」
声はあからさまに不審そうで、那岐は思わず吹き出しそうになったが、こらえる。
「…早いな」
次の一言には驚きが含まれていた。肩をすくめてから、
「今から寝るとこ」
那岐は応じる。
「……」
そのとたん、忍人が眉をひそめたので、今度こそ那岐は吹き出した。
「…そんな、いかにも『不摂生な』って目で見ないでくれない?」
ああ、とつぶやきながらも、忍人の瞳はまだ曇っている。しかたないだろ、と那岐は言葉
を添えた。
「術をかけるのに時間が関わっている鬼道っていうのがあるんだよ」
その言葉に忍人ははっとした様子だ。
「そうか」
すまなそうにつぶやいてから一瞬言葉を切り、
「…あまり無茶はするな、那岐」
低い声で言った。いさめているようでもあるが、それが忍人の気遣いからくる言葉だと気
付かない那岐ではなかった。だが、言い返さずにはいられない。
「…忍人に言われたくないな」
「…?」
早寝早起きで規律正しい将軍は、那岐の言葉に不満そうな表情を隠さない。わかってない
ね、と那岐は薄苦く笑う。
「…その刀」
はっ、と忍人の肩がこわばるのがわかった。
「ほら。…自分でももう、気付いてるんだろう」
「……」
忍人は何も言わない。ただ、唇を一直線に引き結んだ。
「…破魂刀とは、よくも言ったものだよね」
その力の苛烈さから、誰もがその名の由来を、刀で斬った相手の魂を破滅させるからだと
思うだろう。しかし。
「その刀は、忍人の魂を食ってる」
真実、砕かれ削られているのは、刀の持ち主の魂なのだ。
「………」
忍人は目を伏せた。
「……」
那岐も一旦言葉を切る。唇をかんでかすかに忍人から目をそらした。
東の空は、夜明けの気配を宿して薄明るい。その明るさの上方、まだ濃い青紫に彩られた
部分に、細く針のような月が光っている。
有明の月だ。
挑むようにその月を見ながら、那岐は再び口を開いた。
「最初から、その刀は不吉なものだと気付いていたのに、…どう不吉なのかを、僕は深く
考えもしなかった」
なぜ、気付かなかったのだろう。その刀によって、目の前にいる人の命がじわじわと削ら
れていたことに。
「ねえ」
那岐の挑むような目は、月から忍人に向けられる。
「…もう、その刀、使うの止めなよ」
「………」
忍人はなおも唇を閉ざしたまま、ただ伏せていた目を開いて那岐を見た。その目は申し訳
なさそうではあったが、那岐の言葉を聞き入れる色ではなかった。
「…ほら、止めないんだろ」
胸の底に苦く重い何かが落ちていくのを感じながら、那岐は嗤う。忍人は再び目を伏せ、
かすかに那岐から顔をそらした。
「だからさ、忍人にだけは、無茶するなとか言われたくないよ」
那岐は言い放って、うーん、と大きく伸びをする。
「今から寝るよ。…お先に」
「…ああ」
忍人は改めて那岐に向き直った。彼らしい律儀な表情と声には、先ほどの動揺はもう見え
ない。
「姫達には言っておこう。ゆっくり休むといい」
「いらないよ」
那岐は吹き出した。苦笑ではあったが、さっきよりは素直に笑える。
「いつも通り寝坊してるって思われた方が気が楽だよ。…鬼道のことで夜更かししたなん
て、誰にも言うなよ、忍人」
照れを押し隠して突っ張るその言い方に、忍人も苦さのない笑みを浮かべた。
「わかった。…誰にも言わない」
「ありがと。じゃあね」
那岐はひらひらと忍人に手を振ってから背を向け、堅庭の扉に向かって歩いていった。忍
人が自分を見送る気配は、那岐が堅庭の扉をくぐるまで続いた。
後ろ手にその扉を閉めて、那岐はようやく、こらえていた深く苦い息を吐いた。
…忍人。
君がその刀で命を削り続ける限り、…いや、君が刀をたとえ手放しても、僕は今夜のよう
に捜し続けるだろう。…君の魂を、刀から取り返すすべを。
「……」
爪が食い込むほど強く、その手を握りしめる。
……今日は見つからなかった。けれど明日なら。明後日なら。…きっといつかは。
たとえそれが、あの有明の月のように、かすかな光を放つ可能性でしかなくても、可能性
がある限り、あきらめはしない。
……君を失いたくない。
噛みしめた唇からほとりとため息をこぼし、…那岐はゆるゆると歩き出した。