アルバイト 「バイト!?…律くんが!?」 「何のバイトですか…?」 「てか、あんたに出来るバイトなんかあんのかよ」 三人三様の反応がおかしくて、大地はくすくすくすくす笑い、律は憮然とした顔になった。 「ヴァイオリンを教えるバイトだ」 「「「……あ」」」 三人の声が見事にはもる。それを聞いてまた大地が笑った。笑いすぎて腹筋が痛むと見え て、脇腹を押さえている。 「OBのヴァイオリン教室に星奏を目指す生徒が数人いて、実技試験のための追加レッス ンをしてやりたいが手が足りないということなので手伝いに。……何か疑問が?」 「ううん。律くんにぴったりのバイトだね!」 ふわっとかなでが言うと、場が和んだ。律は何故か少しほっとした顔で、それじゃあ、と 言い残して部屋を出て行く。出て行く瞬間、振り返ってかすかに睨んだのは、大地がまだ くすくす笑いを止められないかららしかった。 残された下級生達は、一斉に息を吐く。 「……あー、びっくりした。律がスマイル0円のファーストフードでバイトするとか言い 出したらどうしようかと」 「それはまあ、あり得ないと思いますが…。…でも同じ接客でも、本屋のアルバイトなら 似合うような気もします。……というか、榊先輩、一人だけ平然としてますね。知ってた んですか?」 ようやく笑い収めた大地が、ハルの少し冷めた目線に苦笑を返した。 「律に相談されたからね。自分に出来ると思うかって。……あれで、わりと気にしている んだよ。自分は後輩に怖がられているとか好かれていないとか」 あー、という声を出したのは、ハルか響也か。 「尊敬されすぎて遠巻きにされるだけなんだけどね。本人には区別はつかないんだな」 「で、あんたは何て?」 頬杖ついた響也に聞かれて、大地はただ肩をすくめた。 「律なら大丈夫、出来るって言ったよ。先生は厳しいくらいがちょうどいいよって言った ら納得してた」 「必要以上にスパルタにならないかな…」 この夏それを経験したかなでが恐る恐る言うと、 「相手は自分じゃなくてOBの生徒なんだから加減しろよ、とは付け加えておいたよ」 深いつきあいでさすがに大地はぬかりなかった。 「……でも、ハルが言うように本屋も似合いそうだけど、意外と執事喫茶もいけるんじゃ ないかなと思うなあ、律のバイト先。慇懃無礼に『お帰りなさいませ、お嬢様』とかいう 図が目に浮かぶんだよね」 「……!!!」 とたんにかなでが、がし、と大地の手を掴む。 「……大地先輩……!それ、わかります……!」 「あ、ひなちゃんが反応した。やっぱり受けるんだ」 「はい!律くんに『お帰りなさいませ』って言われてみたい!」 「……わかんねえ」 響也はむっとなった。既にハルは我関せずの体だ。 「兄貴に『お帰り』なんて、何回も言われてるだろう、子供の頃」 「お帰りとはちがうもん!『お帰りなさいませ、お嬢様』だよ!」 「…だから、それがわからないんだって」 「響也が理解できたら俺が怖いよ」 大地が笑い出した。 「って、そもそもあんたが言い出したんだろうが!…あんたは言われたいのかよ、『お帰 りなさいませ』って」 「…んー。…そうだな、俺は『お帰りなさいませ』は遠慮しておくけど、『お帰り』とは 言われたいかな」 「わかん…」 「わからなくていいんだよ」 笑って手を伸ばし、響也の頭をくしゃくしゃと撫でて大地は立ち上がった。 「じゃあ、俺もこれで。…そろそろみんな来るだろう。練習頑張って」 言い置いて、彼も部室を出て行く。…その背中を見ながら、頭を撫でられたことと、何か もやもやと形にならない感情とにむっとして、三度響也は、 「わかんねえ」 とつぶやいた。かなではくすくすと笑い、ハルは呆れた顔で鼻を鳴らす。 「何だよ」 「あたし、わかる」 「僕も多少はわかります、榊先輩の気持ち。……でも」 「でもね、響也はわからなくていいんだよ。……だって響也は、律くんの『お帰り』を今 までにたくさんもらってるんだから」 響也はむすっと頬杖をついた。心の中のもやもやしたものがゆっくりと形を取りそうにな る。形になる前に、響也はそれを心の底に押し込めた。…この気持ちを自分はわからない ままでいいのだと、自分でも思えたから。