ある晴れた日に しゃんと背筋が伸びるような、きっぱりとした寒さだった。突き抜けるように青い、雲一 つ無い空を見上げて、律はゆっくりとヴァイオリンを構える。 『ある晴れた日に』のメロディが、律のヴァイオリンからゆるやかに流れ始めた。 楽譜を読み込み背景となる物語もちゃんと読んで、それでも、オペラの女声のアリアを演 奏するときは、自分の演奏には何かがたりないと感じることが、律はしばしばあった。 だから、課題曲になっている場合は別として、ただ何となくヴァイオリンを奏でたいとき に、オペラのアリアを、しかも恋心を歌うような女声の曲を選ぶことは今まであまりなか ったのだが。 −…何故だろう。 自分でも少し不思議で、演奏しながら律は空を見上げた。 −…この空の色のせいだろうか。それとも。 空は青く、ぴしりと寒い。 『いつかある佳き日に船が礼砲を鳴らしながら港に入ってくる。その船には愛する人が乗 っていて、愛しい人はどこにいる?と私を捜しに来るから、私は丘に登って、彼が捜しに 来るのを待つの…』 以前演奏したときは、歌詞をなぞり、情景を言葉通りに想像して弾いていた。けれど今日 は少し違う。 −…歌詞に出てこない言葉。内に秘めた思い。 ヒロインは、遠い空の下にいて今は会えない愛しい人が、健やかでいるように幸せである ように満ち足りているように、と、願っていたはずだ。満ち足りて微笑んでいる、その笑 顔を思い浮かべながら歌い上げたはずだ。 律は目を閉じた。 閉じればすぐに思い出すのは彼の笑顔。何よりもまず真っ先に、心に浮かぶもの。 今は少し離れているけれど、この空の下のどこかに彼もいる。一生懸命に生きている。今 すぐには会えないだけで、きっとまた会える。そう思うだけで、何かがこみ上げてくる。 律自身も満たされてゆく。迷いも消える。 相変わらず、空は澄んで、青く高い。この空のように彼の人も、迷いなく心安らかである ように、と祈り願う。 一曲弾き終えて、息をついて、…それでもまたすぐに奏でたくなる。律は再びヴァイオリ ンに弓を滑らせた。 律の自主練習は夕方まで続いた。途中で屋上から練習室に入ったので日が傾いてきたこと に気付くのが遅れたのだ。さすがにそろそろ寮に帰らなければと、ヴァイオリンを片付け、 ピロティに降りてきたときだ。 「……律?」 「…っ」 穏やかな声に、律は目を見開いた。 「相変わらず熱心だな」 目の前で大地が苦笑している。 「こんな時間まで練習していたのかい?…どうせ朝早くから練習を始めていたんだろうに」 お見通しだ。律が苦笑するだけで肯定も否定もしないでいると、大地は、沈黙すなわち肯 定だよね、と、小さく口の中でつぶやいた。 「…腕は大切にしてくれよ」 「わかってる」 「どうだかなあ」 雲行きが怪しくなりそうだ。 「…大地は」 律はそれとなく話題をそらそうと試みた。 「ん?」 「今日はセンター試験だったんだろう?…何故学校に」 「自主採点の結果を報告しに来たんだよ。明日でも良かったんだけど、面倒なことは早め にすませたいたちなんだ」 「そうか」 律は少しまぶしいものを見る目で大地を見てから、かすかに微笑んだ。 「いい手応えがあったという顔をしている」 律の言葉に、大地は苦笑して自分の頬を少し撫でた。 「顔を見ただけでわかるのかい?」 「ああ」 「……。律は、すごいなあ」 ほれぼれするよ、とつぶやかれて、律は少し困惑した。からかわれているように聞こえた のだ。だが、その律の顔を見て、大地はすぐに、からかって言ってるんじゃないよ、と付 け足した。 「本当にそう思ったから言ってるんだよ」 「…そうか」 大地の方が俺なんかよりよっぽどよほど人の顔を読む、と律は思った。 「……ところで、よかったら一緒に帰らないか」 大地はそう提案してきた。 「話したいこともあるし」 「…?話したいこと?」 「そう」 律の反応を了承と受け取ったのだろう。昇降口の方へ歩きだしながら、大地はいかにも大 切な秘密を告げるという顔で口を開いた。 「今日、試験の間中ずっと、頭の中で律のヴァイオリンが流れていたよ」 「……」 律は軽く目を見開いた。 「…迷惑にならなかったか?試験中」 「あれ?言ったことなかったっけ?俺、考え事するときは、割といつも頭の中で音楽が鳴 るたちなんだよ。特に高校に入ってからは、律のヴァイオリン率高いよ。迷惑になんかな ったりしない。むしろすごく落ち着く」 「…そうか。…なら、いいんだが」 「たださ」 そう言って大地は少し首をかしげた。 「いつもは、バッハのインベンションやモーツァルトなんかが多いんだけど……律がよく 弾くからさ……でも、今日はオペラのアリアだったんだよね」 「……。」 「あまり律が弾くタイプの曲じゃないし、聞いた覚えもそんなにないのに、なぜだかすご くくっきり聞こえてさ。しかも、他の誰かの演奏じゃない、これは律の音だって確信でき るんだ」 不思議だったよとつぶやく大地に、律は問うた。 「何の曲だった?」 聞きながら、律は既に一つの答えを胸に秘めていた。果たして大地の答えは、 「『ある晴れた日に』。…マダムバタフライだね」 だった。 「……っ」 ゆるゆると、律の口元に笑みがのぼった。何かがひたひたと胸に寄せてくる。 「……?…律?……もしかして、何か知ってる?」 「…いや」 「いや、って、…だけどでもその顔…」 「俺の顔がどうかしたか?」 いつもの静かな顔で律が大地を見返すと、大地は、何か納得いかないと言いたげに、それ でも仕方なさそうに首をすくめた。 「…いや、何でもない。…俺の気のせいだったみたいだ」 律は小さくうなずいて、帰ろう、と告げ、先に一歩を踏み出した。 君が幸せであるように。満たされているように。 青い空に、願いたいことは、ただそれだけ。