朝御飯

ふわあ、とあくびしながら千尋が階段を下りてくると、階下の食堂にいた忍人が、
「女性が大きな口を開けてあくびをするものじゃない」
と顔をしかめた。
あわてて千尋は姿勢を正し、…あれ、と思った。
いつもなら、忍人が厳しい言葉をかけたあとにフォローをくれる風早の声がない。
「風早は?」
「今日は用事があるそうで、もう学校へ行った」
読み終えたらしい新聞をきちんと折りたたみながら、忍人が答える。食卓には、千尋の分
と那岐の分の朝食が、ごはんと味噌汁をよそえばいいだけの状態にしてある。今日の朝食
担当は風早だったはずだ。忍人の分が見あたらないのは、彼がもう食べて洗い物もすませ
てしまったからだろう。
「忙しいなあ。…でも、しょうがないか。お兄ちゃん、今日ね、明日の体育祭の準備で、
私も那岐も風早もいつもより帰りが遅いからね」
「ああ、聞いている。…帰りは、風早か那岐と一緒になるか?」
「うん、どっちかと一緒に帰ってくるよ。…って言っても、…ねえ、お兄ちゃん。私一度
も変質者に会ったことないんだけど。ほんとにいるの?」
「俺もないんだが、ご近所の方は何度も見かけているようだから間違いないんだろう。用
心に越したことはない」
と言って、忍人はかすか、首をかしげた。
「もっとも、もしかしたら狙いは千尋でなく那岐かもしれない」
「ええ!?そうなの?」
「ああ。…俺たちは変質者の影も見たことがないだろう?だが那岐は、電柱の影にそれら
しい男が落ちているのを見たそうだ」
「…落ちている、って、…何、それ」
千尋が眉間にしわを寄せて聞くと、
「那岐がそう言ったんだ。変質者らしき男が落ちてたって」
答える忍人もやや不得要領な顔で答える。
「…ともかく、もしものときは、那岐を守ってやってくれ、千尋」
「う、うん、わかった、がんばる」
「…ちょっと待て!」
洗面所から那岐がだだだ、と駆けてくる。
「あれ、那岐起きてたの?」
「とっくに起きてたよ!ていうか、人がいないと思って、何を千尋に吹き込んでるんだよ
忍人!わかってて千尋からかうのやめてくれない!?」
え、と千尋が忍人を見ると、千尋と目を合わせた瞬間、忍人は、く、と喉を鳴らしてその
ままくつくつと笑い出した。
「ひっどーい!からかったの!?」
「いや、那岐を狙ってるかもしれないと思ったのは嘘じゃない」
「そんなことあるわけないだろうー!!気持ち悪いこといーうーなー!!」
地団駄踏みかねない勢いで那岐が叫ぶ。手だけでなだめて彼を彼の席に座らせながら、忍
人は笑いをまだこらえきれずにいる。
二人のじゃれあいを、呆れ半分、愛しさ半分でうかがいつつ、千尋は那岐の分と自分の分、
ごはんをついだ。味噌汁をあたためなおす。忍人が味噌汁を、千尋の分と那岐の分、つい
でくれる。気持ち、那岐の分にえのきが多いこと、千尋は気付いていて気付かないふりを
する。
那岐の前に、ごはんのお茶碗を置いて、自分の分を自分の前に置いて、手を合わせていた
だきますをすると、那岐が千尋を見てちょっと笑って、同じそぶりをした。
忍人が二人の前にお味噌汁を置いてくれる。肩越しに見上げると、感情のあまり出ない忍
人の顔に、かすか浮かぶ、優しい笑み。
…泣きたくなるような、幸せ。
…千尋の心の中で、千尋の知らない千尋がそうつぶやく。
あなたはだれ、と問うと、いつもそっと心の中の森に消えていく。
「…千尋。食べないの。遅刻するよ」
ようやく機嫌が直ったらしい那岐の声に肩をすくめてうなずいて、千尋ははしをとった。

神様どうか。もう一人の私にも幸いがありますように。