朝日のようにさわやかに


モモが散歩の途中、不意に足を止めて生け垣の匂いをかぎ始めた。大地は苦笑いで、足を止める。
モモは、聞き分けがいいのと、他の犬に対してわりと淡白な性格であるため、散歩の途中
に他の犬がつけていったマーキングに気を取られることはあまりないのだが、その分、一
度気になるとわりとしつこく動かない頑固な面もあった。
今日は休日だし、定期考査前で部活もない。急ぐ散歩ではないので、大地は苦笑しながら
モモの気のすむようにさせる。
ところが、一生懸命に匂いをかぐモモが、ふんふんふんふんと鼻をうごめかしながら、だ
んだん上を向いていく。気付いた大地は違和感を覚えた。そんな上の方にマーキングする
犬などいるはずがない。だが、とうとうモモの首はある角度で固定された。その角度だと
大地の腰のあたりを見ていることになる。
いぶかしさで、
「どうしたんだい、モモ?」
少し腰をかがめ、モモの目線を追って、大地はようやくはっと気付いた。
視線の先の生け垣の中、ちょうど大地の腰の辺りに、何か白っぽいものが引っかかってい
た。形と大きさからしてどうやら封書のようだ。冬の早朝とあってあたりはまだ薄暗く、
大地の視線の高さからは通りすがりにぱっと見ただけでは気付かなかったのだ。位置から
して、コートのポケットにつっこまれていたものがうっかりと生け垣の枝に引っかかった
のではないかと思われるのだが、どうやら持ち主は気付かないまま通り過ぎてしまったも
のらしい。
枝などに引っかけて破らないよう、注意深く手紙を引き出すと、モモは満足げにわん!と
吠え、盛大に尻尾を振った。
「ああ、よく見つけたね、モモ。えらいな、お手柄だよ」
モモの頭を軽く撫でてやってから、大地は手紙を確認した。手紙は未開封で切手には消印
が押されていない。
「これから出しに行く予定のものだったのかな。…いつからここにあるんだろう。……ま、
代わりにポストに投函しておけばいいか」
一人言をつぶやきながら何気なく宛名を見て、大地は一瞬息を呑んだ。
住所は見知らぬ土地だったが、受取人が如月某宛になっていたからだ。
「……如月って、……もしかして」
ばっと手紙を裏返す。……そこには、大地が想像したとおりの名前があった。
「…!」
思わずモモを見下ろすと、モモはつぶらな瞳で大地を見上げて、何ですか、そろそろ行き
ましょうよ、もうここには用はありません、という顔をしている。
「……だから、か?……モモ」
足を止めたのは。いつもよりも執着したのは。……知っている匂いの落とし物だと思った
から?
大地は思わずごしごしごしとさっきよりも盛大にモモの頭を撫でた。モモはうれしそうに
甘える声でくふんくふんと鳴く。
「えらいなあ、モモ。……びっくりしたよ」
これは寮へ届けるべきか、それとも明日学校で渡すかと一瞬悩んだが、日曜でも手紙の収
集はあるはずだし、いつ落とされたかわからないものなら少しでも早く届いた方がいいだ
ろうと結論づける。
「おいで、モモ。…ごほうびに、いつもよりも長く散歩しよう」
通常の散歩コースは、大地の家から坂道を上がって、一番近い児童公園をぐるりと一周し
てくるものだったが、ポストがあるのは坂の下の方だ。
大地がぐるりと向きを変え、坂道を下り始めたので、モモは、まさかもう散歩が終わりな
のかと、不満げにワン!と一声吠えたが、大地に目でなだめられ、しかも彼が自宅を通り
過ぎてなお坂道を下り続けるのを見て機嫌を直した。現金なもので、とたんに足取りが軽
くなり、チャ、チャ、チャ、と規則正しくアスファルトを叩く足の爪の音もテンポが速く
なる。つられて大地の足も早くなった。
坂を下りきると交差点だ。商店街の方へと道を横切るためには、大きな幹線道路を越えな
ければならない。横断歩道の向こう側を何気なく見やって、大地は思わず目を凝らした。
遊歩道に人影があった。うろうろと、あちらを見たりこちらを見たり、必死で何かを捜し
ている様子だ。少しずつ、少しずつ、大地がいる交差点の方へと戻ってくるその背格好を
見て確信し、モモを促してちょうど青に変わった信号を急いで渡る。
「律」
呼びかけると果たして人影は顔を上げた。
「…大地。……散歩か?おはよう」
自分も挨拶するつもりか、モモが一声、わふん!と吠えた。律は目を細めて苦笑する。
「ごめん。…モモもおはよう」
言って腰を落とし、おとなしく立っているモモの頭を指先だけでそっと撫でてやる。
その目の前に、大地は白い封筒を差し出した。
「…これ」
「……、…!」
首をかしげた律が、次の瞬間封筒を受け取って立ち上がる。
「……大地、これ、どこで…!」
「生け垣に引っかかってた」
「坂の途中か?」
「ああ」
「……そうか…」
ふしゅう、と、律は風船がしぼむように肩の力を抜いた。ほっとした様子で穏やかに笑う。
「ポストまで行ってから落としたことに気付いたんだ。どこか途中に落ちているはずとは
思ったけど、薄い封筒一枚だからもしかしたら風で飛んでやしないかと思って気が気じゃ
なかった。せっつかれてせっつかれて、やっとの思いで書いたのに、また書き直すのは気
が重い」
「家族に手紙?」
「そう、祖母に近況報告。…正月、帰らなかったから、心配されて」
ふー、と律はため息をついた。今度は少しおっくうそうな顔だ。…腕のことを伏せつつ、
当たり障りなく近況を伝える文章を書くのは、さぞ骨が折れる作業だったのだろう。
「…本当にありがとう、大地。…恩に着る」
「礼ならモモに言ってくれ」
頭を下げられそうになって、慌てて大地はさえぎった。
「手紙を見つけたのはモモなんだ」
「モモが?」
「ああ、散歩の途中で突然足を止めて、匂いをかぎ始めた。…俺はモモの視線を追って、
手紙を見つけたんだ。お手柄はモモだよ」
律はぱちぱちと何度かまばたいた。丸くなった瞳が、やがて三日月のように弧を描く。
「……そうか。……ありがとう、モモ」
しゃがみこんで、おずおずとながら今度は手の平で、律はモモの頭を撫でた。モモはくす
ぐったそうに耳を二度ほどぷるぷると振る。
「モモは、訓練したら警察犬になれるな」
「どうかな。…普段は別に落とし物を見つけたりしないよ。……今回見つけたのはたぶん、
知ってる匂いだったからじゃないのかな」
頭を撫でながら優しくモモを見ていた律が、ふと顔を上げた。一人と一匹を見下ろしてい
た大地と、ひたりと目が合う。…その瞳が何か言いたげに思えて、大地はそっと水を向け
てみた。
「モモが律の匂いに気付いたのが不思議?」
「…いや、不思議なのはそこじゃない。モモは利口な子だな、すごいな、と思うだけだ。
…そうじゃなくて、大地と出会ってまだ二年もたたないのに、こうしているとなんだか、
ずっと昔から一緒にいるように思えて、…それが不思議で」
「…っ」
大地は息の音をたてそうになったが、律の言葉を邪魔しないように必死でこらえる。
「上手く言えないが、…こうしているとすごく落ち着く。…しっくりくる、と言えばいい
のかな。まるで、故郷で幼なじみと過ごしているようだ」
「……」
大地は言葉を探した。いつもなめらかな舌は、けれど、今日に限ってぎこちなく。
「律がそう言ってくれて、…俺も、とてもうれしい、よ」
訥々と、そう言うのがやっとだった。
……律。俺は少しでも君の助けになっているんだろうか。俺や、俺の家族やモモは、故郷
を遠く離れて一人暮らす君の安らぎになっていると、うぬぼれていいんだろうか。……俺
が愛するこの横浜という街を、君は第二の故郷として愛してくれるだろうか。
渦巻く言葉はあまりに陳腐で、口には出来ない。けれど、問わなくても、穏やかな律の笑
顔に答えをもらった気がした。
満ち潮のように穏やかな喜びがひたひたと大地に寄せてくる。それは律も同じなのだろう
か、モモを撫でているのとは別の手が、そっと胸を押さえている。……やがて彼は、これ
で最後というようにモモの頭をぽんと一つ軽く押さえるように撫でて立ち上がった。
「…大地はこれから、どこまで散歩するんだ?」
さらりとした声に、大地も我に返った。
「…あ、…ああ、ポストまで行って、後は近くの公園でも回って、家に帰るつもりだった
よ」
「じゃあ、俺も一緒に行かせてくれ。途中でコンビニに寄ってもいいかな」
「かまわないけど、何故?」
「モモに何かお礼をする」
律の真面目な言葉に大地は苦笑した。
「いいよ、そんな」
「大地に言ってない、モモに言ってるんだ。……ごほうびがほしいよな、モモ?」
人間の言葉はわかりません、どうでもいいけどそろそろ行きましょうよ、という顔で、モ
モは遊歩道のタイルをかしかしとかいていたが、律に話しかけられたとたん、うれしそう
に一声わん!と吠えた。
それがいかにも、「はい欲しいです!」と言っているように聞こえて、大地と律は顔を見
合わせて笑い出す。
くすくす笑いを喉で転がしながら、二人と一匹は朝日があふれる街をゆっくりと歩きだし
た。