晩夏の祝祭


カクテルパーティー効果、という言葉がある。
どんなにざわざわした空間で、どんなに小さな声で呼ばれても、人は自分の名前には反応
する。…おおざっぱに言えば、そういうことだ。

それは自分の名前ではなかった。だが、かすかなかすかな音で流れてきたそのメロディに、
反応したのは大地一人だった。
その音で弾くその曲を、知っているのはこの場にたぶん大地と、あと一人二人くらい。聞
こえていないのか、知らぬふりか、彼らは全く反応していない。大地があえて、いつもよ
りも少し距離を取っていた律やかなでも、遠くで誰かにつかまっている。大地がつかまっ
ていないのは、意識して目立たないように気配を消していたからだ。
「…」
誰も自分に注目していない。それを確認して、大地は気配を殺したまま、するりとパーテ
ィー会場を抜けだした。

音は控室の方から聞こえてくる。廊下は静かだからかろうじて音をたどれるが、本当にそ
れはかすかな音で、一体どれだけ音量を落としているのか、と思う。…彼の持っているの
がサイレントヴァイオリンだから出来ることだ。…そして、よくもあのさわがしい会場で、
この音を見つけたものだと、自分で自分に苦笑してしまう。
ゆっくりと大地が控室のドアを開けると、演奏者はドアに背を向けていた。開閉音が耳に
入ったのか、弓がひらりと止まり、彼はゆっくり振り返って、軽く目を見開いた。
「…は。…信じられん」
唇を薄く引いて。笑みを作って。
「…まさか、聞こえた?」
大地は静かにうなずいた。
「パーティー会場で?…それとも、廊下におった?」
「…会場で」
「……」
ゆるり、蓬生は眼鏡の奥の瞳をすがめた。
「…まだ、ならしの演奏やった。…向こうには届かんはずの音量にしたつもりやったのに」
白い手が弓とヴァイオリンを小卓に置き、ゆるりと伸びて、大地の頬に触れる。
「…そんな小さい音たどってここまで来て、…どうするつもりやったん?」
「……」
わかりきったことを聞く、と、大地は思った。…けれど、この答えをしくじってはならな
い、とも思った。
わかりきったことを敢えて聞く。……それは、他人同士がつながるために必要な儀式の一
つだ。たとえば、神の前で永遠を誓う儀式もその一つ。
「俺は、土岐に会いたかった。それに、音を聞いたとき、土岐が俺を呼んでいる、とも思
った。…だから、来たんだ」
蓬生は瞬きもせず、大地を凝視した。大地の一言一言を聞き逃すまい、一挙手一投足を見
逃すまいとするかのように。………そしてやがて、ふっと笑う。
「…そうや」
低い声が肯定する。
「俺は君を呼んどった。…君を思うて、ヴァイオリンを響かせた。大地が欲しくて、…手
に入れようと思って。……。」
まだ何か続きそうな言葉を、蓬生は不意に断ち切った。そして自嘲するかのように苦く嗤
う。
「…陳腐やな。こんな言葉では、到底君の気を引かれへん。いつもの俺やったらこんなこ
と言わんのに、……何で、こんなつまらん言葉しか思いつかんのやろ。何かが身体から飛
び出してしまいそうなくらい心ははやって落ち着かへんのに、言葉がそれについてこぉへ
んで、…めっちゃもどかしいわ」
らしくない素直な吐露に、頬を蓬生の手に預けたまま、大地は少し目を伏せた。
「いいんだ、土岐。…言葉がほしいわけじゃない。俺だって、君をはっとさせるような気
の利いたことを何か言いたいけど、さっきから何にも出てこない。……ただ」
大地は、再び瞳を開けた。頬に当てられた蓬生の手をとり、その薬指の爪の先を、誘うよ
うに唇に含む。
じわり、と蓬生の目尻に朱が走り、瞳には情欲が火花のようにちかりひらめいた。
「……君は、…言葉足らずでも、おねだりは上手や」
片手を大地の手に預けたまま、空いた手で蓬生は大地の背を抱いた。そしてぐいと引き寄
せ、距離を縮める。
「最初からずっとそうやった。…俺は君をからこうてるつもりで、…気付いたら君に誘わ
れて、溺れて」
「…土岐」
何か反論しようとしたその唇を、蓬生は解放された薬指で触れて、止める。……そして大
地のうなじに顔を寄せ、耳朶にそっと口づけて。
「見事な手管や。…恐れ入ったわ」
そのうっとりとした声は、耳朶から耳殻を通って、じかに大地の鼓膜を震わせた。
「…あの、『フィレンツェの思い出』も」
びくりと大地が身体を震わせた。口頭試問を受けようとする生徒のように身を固くして、
気をつけの姿勢を取る。
ゆるゆると少し首を振って笑う蓬生の髪が、大地の肩口にこぼれた。
「…大丈夫、合格や。申し分ない出来やった。……ごほうびは、何がいい?」
「……ここまできて、まだそれを俺に聞くのか」
大地の声が少し震えている。触れるだけの口づけを耳朶に落とされているだけなのに、頬
もうなじも既に朱く、感に堪えぬという顔でかすかにあごをあげ、目を閉じる。
「…そら、聞くわ。…君へのごほうびやもん。…俺が喜ぶもんやのうて、君が喜ぶもんや
ないとあかんやろ?」
話しながら、蓬生は初めて、それまで唇で触れるだけだった耳朶を、そっと前歯で甘噛み
した。
「…っ!」
大地の身体が今までで一番大きく震える。くらり、たたらをふみそうになって、よろける
身体を、両手を広げて蓬生は抱きしめた。
「…な、…教えて?…大地のおねだりする声が、聞きたい」
ひくり、大地の喉が動いた。促すように背中を撫でると、せっぱつまった声が、
「土岐っ…」
たしなめるように名を呼んだ。
それきりかみしめられた唇は、言いたくないというアピールだろう。…けれど蓬生はそれ
を許さなかった。
指先でゆっくりと大地の唇をなぞりながら、甘い声で、脅すように。
「…言うてくれな、俺はわからへん。…何をしたらええんかも、……何もせんほうがええ
んか、も」
…その一言が、大地の舌を動かした。
「……俺は、……この夏だけのつながりにはしたくない。身体をかわすだけの遊び相手で
終わりたくもない。……本当の意味で、土岐をちゃんと、手に入れたい」
観念して、絞り出すようにつぶやかれた言葉は、蓬生の瞳をとろけさせた。
「…わかっとう。…俺も、覚悟決めた。…どんなに離れても遠くても、…俺が君に届くよ
うにする」
ぎゅ、と大地を抱きしめて。
「…本気で、ちゃんと、つながろう」
告白する蓬生の声も少しかすれた。これ以上もう、節制を続けることは出来なかった。
「……っ」
貪るような蓬生の口づけを、うろたえずに大地は受け止めた。
個室をいくつか挟んだ向こうにある会場では、華やかなパーティーがまだ続いている。賑
やかな喧噪も、高らかな笑い声も、響く。
…けれど、二人の耳にはもう届かなかった。二人の間にあるのはただ、互いを求める息づ
かいと、もどかしくぶつかりあう衣擦れの音と、冷たい床に倒れ込んでも、じかに触れあ
うことでなお加速するように沸騰する体熱ばかりで。
「……大地」
慈しむように名を呼べば、切れ切れの呼吸で必死に応えようとする、…その姿が愛しくて、
蓬生は大地の息を奪うように、舌を絡めるキスをした。

それは、誰も知らない二人だけの、晩夏の祝祭。