僕は鳥じゃない

日が少し傾いて、屋上に涼しい風が吹き始めた。
目の前の楽譜を一通り最後までさらって、大地は少し息をつき、ヴィオラを下ろした。
かなでが学内選抜用に選んだのは、ドヴォルザークの四つのロマンティックな小品の中の
第一番だ。
大地は一度この曲を弾き込んだことがある。もちろん、ヴァイオリン二挺とヴィオラとい
う変則的なアンサンブルではなかったが、編成が変わっても曲の勘所は変わらない。一週
間という短期間でアンサンブルを仕上げなければならない状況で、かなでがこの曲を選ん
だことは、正直大地にはありがたかった。
ペットボトルで水分を補給して、最後までめくった楽譜を元に戻す。
集中が途切れると、それまで聞こえなかったいろんな音が不意に耳に飛び込んできた。
金管アンサンブルがチューニングしている音、指ならしだろうか、スケールを繰り返すピ
アノ、柔らかいクラリネットのソロ。
星奏学院は、音楽に満ちている。
まとまりない、雑多な、それでもどこか落ち着く優しい音たちに大地が身を委ねていると
不意に、その中から一つの音が伸び上がるように響いた。
「…!」
大地ははっとして耳を澄ます。
…この音を、知っている。
「…律」
音はまっすぐ空を目指すように昇ってくる。軽く目を閉じて大地がうっとりとその旋律に
身を任せていると、不意にもう一つの音が律のヴァイオリンにすっと寄り添った。
…チェロだ。
伸びやかでぶれのない音。
学内選抜は短期間で曲を仕上げなければならない。さほど練習も足りていないだろうに、
その音は既にきりりと正確だった。
「…ハルかな」
大地はぽつりつぶやいた。
子供の頃から知っている生真面目な少年は、オケ部に久々に入ってきた期待のチェリスト
だった。一年生の内からソロを任せられそうな技量を持っているのは彼だけだ。
二つの音はぴたりと寄り添っていた。音もテンポも揺るがない。
まるで、身軽な二羽の鳥が、先になり後になりしながら空高く昇っていくような。
「…」
大地は思わず抜けるように青い夏空を見上げた。ぎらぎらと太陽が照りつけるその空には、
一羽の鳥も飛んではいない。
薄く苦い笑いが、大地の唇に浮かんで消えた。
…俺は、鳥じゃない。
俺の音は、その高みには届かない。
「…っ」
大地はこぶしで自分の額を軽く一回叩いた。
…きれいごとを言うな。俺は、ハルの音の至る高みがうらやましいわけじゃない。律のヴ
ァイオリンの力に負けない、彼に寄り添って許されるその音の力がうらやましいんだ。自
分の醜さを、音楽にかこつけてごまかそうとするなんて。
「…サイテーだ」
ぼそりとつぶやき、大地は再びヴィオラを取り上げた。再びゆっくりと自分の目の前にあ
る楽譜をさらいはじめる。音だけにのめり込んで、何も考えられなくなるように、何度も、
何度も。
…何度弾いた後だったろう。
一旦弓を置いて水を飲もうとした大地の背後で小さな咳払いがした。
「…っ」
はっと振り返るとそこに律が立っている。
「…律?」
名を呼ぶと、律は眼鏡を指で押し上げてから近づいてきた。
「…音が荒れていたな」
大地は息を呑みかけてこらえた。
「…聞こえたのか?…どこで…」
「練習室の窓を開けたら聞こえてきた。…他のヴィオラはともかく、お前の音は、わかる」
大地にうろたえる暇を与えず、律はそれで、と言葉を続けた。
「何かあったのか?」
「…何か、とは」
「音が荒れる原因だ」
「…いや…別に。…お前に指摘されるまで、音が荒れているとは思わなかった」
……嘘だ。
大地は嗤う。
だがどうしても、本当のことは言えなかった。お前と音を合わせる全ての人間に俺は嫉妬
しているんだ、なんて。
幸い、そのときうまい言い訳を思いついた。
「焦っているのかもしれないな。変則的なアンサンブルを短期間で仕上げるのは慣れてい
ない」
口から出任せの理由だったが、口に出してみるとそれなりに現実味があってそんな気にな
ってくるから不思議だ。
律も、なるほど、と腕を組んだ。
「本来リーダーシップをとるべきはヴァイオリンだが、響也も小日向もソロで演奏するば
かりで、アンサンブル経験はほとんどないからな。大地の負担が大きいか」
なら、と律はおもむろに手にしていたケースからヴァイオリンを取り出した。
「よければ一度合わせてみないか。…何かの参考にはなるだろう」
うなずきかけて、大地ははっと思いとどまる。
「待て。…選抜試験は公正にすべきだろう。お前がどこかに肩入れするのは…」
まだ続くはずの大地の言葉を律が遮った。
「肩入れなんかじゃない。…これは自分のためだ」
「…は?」
律はもう一度眼鏡を押し上げて、大地から目をそらす。
「一曲終えて休憩したときにお前の音が聞こえてきた。…ワンフレーズ聞いただけで、音
が荒れているのがわかって気になって、練習を再開してもその音が頭から離れない。…だ
から……」
さらに言いつのろうとして、ああ、と律は首を振った。そして改めて大地に向き直る。視
線がひたりと合って、大地は一瞬たじろいだ。
律の目に、何かを請うような切なさを見た気がしたのだ。
だが、改めてまじまじと見直すと、目の前にいる律はいつもどおり冷静だ。…一瞬見た何
かは、きっと自分の都合のいい思いこみだったのだろう。
「…変な言い訳はよそう。…俺は単に、今お前と一曲弾きたいだけなんだ。…期末試験だ
の、コンクールの準備だの、いろんなことに妨げられて、ずいぶん長い間お前と弾いてい
ない。そこへもってきて、学内選抜では別アンサンブルだ。…だから、お前の音を聞いた
ら無性にお前と一曲合わせたくなった」
静かな、けれどどこか熱を感じる律の声を聞きながら、大地はゆっくりと何かが腑に落ち
ていくのを感じていた。
…そうか。…自分もそうだったのか。
音の高みだとか、自分はたどり着けないとか、彼に寄り添って許される音がうらやましい
だとか、いろいろ名付けてみたけれど、本当はそんなことはどうでもよくて、自分はただ
律と音を合わせたかっただけなんだ。
その証拠に、さっきまでの焦燥や嫉妬が嘘のように消えている。
律が目の前にいる。自分の音を聞き分けてここに来てくれている。
それだけで、すべてが昇華してしまう。
「…どうする?」
静かな問い。
「もちろん」
短い答え。
それから笑って、大地は弓を持ち直した。律もヴァイオリンをかまえる。
カウントはいらない。…目が合うだけで、
「−」
音がそろう。

俺は鳥じゃない。それはちゃんとわかってる。
だが、君が高みに飛び立つために、君の音を支えることは出来る。君の心が揺れないよう、
ぶれないように。
…俺はゆるがず、ここにいる。