釦

「前の釦は全部取られちゃってると思うなー」
「さすがにそこまでは…。…そもそもお兄ちゃんに声をかけるだけですごく勇気がいると
思うんだけど」
「甘いね。卒業式だよ。最後だよ。勇気くらいふりしぼるだろ」
「…うう」
那岐は少し楽しそうににやにやしている。千尋は、自分はどんな顔をしているんだろう、
と思った。
今日は忍人の高校の卒業式だ。半日で帰ってくるはずで、千尋や那岐の中学が定期考査前
で短縮授業とはいえ、帰宅すればもう忍人は家にいるものと思ったが、まだ姿がない。部
屋に鞄も制服もないので、学校から帰ってきて、また出かけたわけでもないようだ。
…というわけで、前述の二人の会話になるのである。
「だーかーら、絶対告白されて、で、そのままデートに流れ込んでるんだって」
「…お兄ちゃんがあ?」
千尋は居間のソファになついて、少し上目遣いに那岐を見た。…さっきまでは、自分はど
んな顔をしているだろうと思っていたが、さすがにそろそろ自分の表情に自覚が出た。…
唇がとがって、少しへの字で、上目遣いで。
…絶対、拗ねた顔してる、私。
「お兄ちゃんが、…いきなり告白されて、…デートとかするかなあ…」
声もちょっぴりいじけた。
声の色に那岐も気付いたのだろう。にやにや笑いがふと静まり、眉を上げて、目を細める。
…ああ、なだめる顔だ、と思ったとき、
「ただいま」
玄関の戸が開く音がして、落ち着いた声が帰宅を告げた。
はた、と顔を見合わせた那岐と千尋は、ぱたぱたと相次いで玄関に迎えに出る。
玄関先で靴を脱いでいた忍人は、慌てた様子で迎えに出た二人に少し不思議そうな顔をし
てから、改めて
「…ただいま」
と静かに言った。
黒いコートはぴしりと折り目の乱れもなく、静かな表情もいつもと変わりない。朝家を出
たときと違うのは、手に持った一本の筒と、かすみ草とマーガレットのかわいい花束。
「部の後輩がくれたんだ。俺はいいと言ったんだが、女性にだけ渡して男性に渡さないの
は男女差別だと、後輩の女の子が主張したものだから」
花束をそんなふうに説明して、忍人はそっと千尋に手渡した。
「俺は、どう扱えばいいのかわからない。千尋が生けてくれるとうれしいが」
「あ、うん。…とりあえずお水につけてくるね」
千尋は花束を受け取り、ぱたぱたと洗濯機の方へ走っていって、バケツに水を張り、花を
放す。急いで戻ってくると、靴を脱いだ忍人がちょうどコートを脱いだところだった。
傍で見ていた那岐がまず、
「あれ」
と声を上げ、千尋も思わず、
「あ」
と声を出してしまった。
「…?」
コートを脱いで腕にかけた忍人は、二人の反応に不思議そうに首をかしげる。
コートの下の忍人の制服は一点の乱れもなかった。釦は、胸も袖口もきちんとそろってい
る。
「無傷だ。なんで?」
那岐は不思議さを隠さない声で聞く。
「何のことだ」
疑問に忍人が疑問を返した。
「制服の釦。誰かにほしいって言われなかった?」
忍人は、ああ、と小さな声を上げ、…少し微妙な顔をした。
那岐と千尋はがば、と顔を見合わせる。
何もなかったのなら、そんな反応はしないだろう。忍人ならいつもの静かな声で、別に何
もと言うだけのはずだ。
「………!……!」
千尋は口を開けた。…が、うまく声と言葉が出てこない。金魚のようにただ口をぱくぱく
させるだけだ。
「…なにかあった?」
見かねて那岐が、まるで忍人の言葉の真贋を計るように、片眼をすがめながら聞いた。
忍人は、問われて小さく首をすくめた。一瞬の間の後、なぜか家の奥に視線を流しながら
答える。
「別に。…釦がほしいと言われたが死守しただけだ」
「…ししゅ!」
千尋は思わずオウム返しに叫んだ。
…そしてまた口が金魚になる。那岐は額を押さえ、…また代わりに聞いてやった。
「なんで死守?…誰か、あげる予定の相手でもいるわけ?」
「いや?」
その問いには忍人が即答する。…そしてまた少し微妙な顔をして。
「…風早が、…その制服は那岐にも使わせたいから、絶対釦は死守してくださいねと言っ
たんだ」
・・・・・・・・。
…那岐と千尋は脱力して、廊下と廊下の壁に二人でなつく。
「せ、…せこい理由……」
那岐がこっそりつぶやいた声を聞いて、忍人は微妙な顔のまま、笑った。
「ほしいって言ってくれた相手に、正直に言ったわけ、それを?」
「そこまで説明する必要はないだろう。…申し訳ないが、あげられない、と答えただけだ」
「うわー、罪作り」
忍人がじゃなくて風早が、と那岐は付け加える。忍人の微妙な顔がとうとうくずれて、く
すくすと彼は笑った。
「じゃあ、別に卒業式の後デートしてたわけじゃなかったんだ」
「まさか。…友達とハンバーガーを食べに行ってただけだ」
「ハンバーガー?」
「弟がほしがっているカードが、後一種類だけどうしても出ないから、俺と一緒にハッピ
ーセットを食べてくれと羽田が…。……どうした」
問われても、那岐も千尋も答えない。忍人の途中で吹き出してしまって、二人してげらげ
ら笑い出したからだ。千尋よりも先に那岐が復活し、
「高校生にもなって食うな!ハッピーセットを!!」
つっこんでから、また笑い出す。
「別に、量が少なくておまけがついてるだけで、高校生が食べて悪いってことはないだろ
う。…足りなくていろいろつけたら少し高くついたが」
忍人は意外と涼しい顔だ。別に注文するのも恥ずかしくはなかったらしい。
が、笑い転げて声もない二人が廊下をいつまでも塞いでいるのには少し困ったようだ。
「…ところで、通ってもかまわないか?」
静かな質問に、二人の笑いはようやく収まった。
「着替えてくる。…何か手伝うことは?」
問いは今日食事当番の那岐に対してだ。…別にないよと那岐は肩をすくめ、お茶を淹れる
から、着替えたら降りておいでよ、と付け加える。
忍人は片手を挙げて了承し、いつもの規則正しい足取りで階段を上っていった。
笑いすぎてこぼれた涙を拭きながら千尋が洗濯機のバケツのところに向かおうとすると、
背中から那岐がぽつりと言った。
「…もらいに行けば?」
「…?」
振り返る。那岐は、目を細めた優しい顔で千尋を見ていた。
「…え?」
「釦。記念にさ。…せっかく忍人が死守したんだから」
ほしいんじゃないの、と言われて、千尋は耳が熱くなるのを自覚する。
きっと真っ赤になってるんだろうな。
ごまかすように笑って、千尋は首を横に振った。
「…でもほら、風早が制服は無傷で死守ってお兄ちゃんに言ったんだし」
「無傷で帰ってきたじゃん。…風早との約束は、忍人は守ったよ。一つくらい千尋が釦を
もらったって別に風早だって怒らないだろ。どうせ予備が一つ上着に縫いつけてあるはず
だ。千尋が釦をもらった後で、その予備の釦を縫いつけ直せばいいさ」
もらっといで。
重ねられたその声が、戸惑う千尋の背中をふわりと押した。まるで操られるようにふらふ
らと千尋は階段に向かって歩き出す。
階段を上がろうとして足を上げて、その仕草ではっと我に返って。千尋の動きが止まる。
「……」
しかしそれは一瞬だった。
千尋は再び足を上げ、階段を一段上る。その体勢で那岐を振り返り、照れたように小さく
笑って、…そのまま彼女はとんとんと階段を駆け上っていった。
部屋をノックする音。招じ入れられる気配。
那岐は口元で微笑んで背を向け、食堂へ入っていった。
きっと二人とも、少しだけ頬を赤くして食堂へ降りてくるだろう。熱いお茶を淹れておい
てやろう。頬の赤みはお茶の熱さのせいだと、二人して言い訳が出来るように。