傍福

「那岐、ごめん!待ってて、もうちょっとだから!」
叫んで廊下に飛び出していく千尋を、那岐は手をひらひらさせて見送った。レポートの提
出日に間が悪く日直に当たった千尋は、今の今まで大量の紙を机に広げて、クラス名簿と
にらめっこしていたのだ。
これが秋や冬なら、クラスにも慣れていて、名前を見ただけでクラス名簿の順にたやすく
並び替えが出来るようになるのだが、クラス替えが行われた新学期すぐでは、名前だけで
はなかなか並び替えも抜けもチェックできない。手伝おうにも、千尋本人がパニックして
いて、どこに手を付けたら手伝いになるのかわからない。おたおたしながら千尋一人でよ
うやく全員の提出を確認し終えて、今走っていったところだ。
放課後の教室にはもうほとんど人気はないが、残っていた数人の生徒は苦笑混じりの笑顔
でそれを見送る。
「…にしても」
中で、一人の男子生徒が、感に堪えないという様子で口を開いた。
「…仲いいなあ、お前ら」
那岐はちらりと、話しかけてきたクラスメートに目を向けた。初めて一緒のクラスになる
相手だったが、千尋と那岐は、その容姿や従兄弟同士での同居という状況が珍しいことも
あって、学校では有名人だ。こちらが知らなくても向こうが自分たちを知っているという
のはままあることだった。
「従兄弟同士ってそんなもん?俺、中学の時、一個上の姉貴と同じ学校に行ってたけど、
一緒に帰ったことなんか一度もないぞ」
詮索されるのが嫌いな那岐は少し眉をひそめたが、感心しまくっている相手は全くそれに
気付いていないようだ。
「…最近、うちの近く不審者が出るらしいから、…一緒に帰るのはその用心だよ。それに、
千尋は妹みたいな感じだから、お姉さんとはまた違うんじゃない」
「不審者かー、そりゃ危ないなー」
口火を切った少年は気のいいたちと見えて、話を突っ込みはせずにそこで切り上げようと
したのだが、そこへ那岐の背中の方から別の少年が話しかけてきた。
「いや、俺、二つ違いの妹がいるけど、絶対お前らほど仲良くない。年下のくせに口ばっ
かうるさくてかわいげなくて。やっぱさ、従姉妹と兄妹はちがうよ。なにしろ、従姉妹は
結婚できるしさ。意外と、那岐はともかく彼女の方は那岐のことが好きだったりして!」
そう言ってげらげらと笑う声に呼応するように、ひゅー、きゃー、という奇声がいくつか
あがったが、たった一つの舌打ちでひたりと静まりかえった。
舌打ちは那岐だ。
ぐるりを見回した一瞥は、雪の女王もかくやという冷ややかさで、教室内にいた一同を、
冷やかした者も冷やかしていない者も一様に、凍り付かせた。
「ごめーん、那岐ー!」
千尋が戻ってきたのはそのタイミングだった。
「終わったよ、帰ろう!」
弾む声で告げてから、凍り付いた室内に気付いたらしい。くるりと見回して、
「…何かあったの?」
そろりと問う。
「別に」
那岐はいけしゃあしゃあと答えて鞄を手に取った。
「帰ろう。今日の食事当番千尋だろ」
「あ、うん、あの…」
すたすたと歩き出す那岐を追おうとして、千尋はおろおろ辺りを見回し、困ったように小
さく笑みを浮かべて、
「あの、じゃあ、…お先に。また明日」
こそりと手を振る。
那岐は周囲を完全無視。
残されたクラスメートの呪縛は、二人が教室を出て行った後もしばらく解けなかった。

「…もう、那岐ってば」
千尋はかすかに眉をひそめて唇をとがらせた。
「新しいクラスになったばっかりだっていうのに、何したの?」
「何も」
那岐はすげなく返す。
何も、というのは本心からだった。那岐はただ、舌打ちを一つしただけだ。彼らが凍り付
いたのは、自分たちがいらぬ詮索をしたというやましさがあるからだろう。
それに、と那岐は思う。
ただ仲がいいから、というだけで、気安く好きだの嫌いだのを語ってほしくない。
仲がいい子供達がじゃれるときの眼差しと、本気の恋をしている女性の眼差しとは明らか
に違うのだ。
「あ!あれ、もしかして」
機嫌が悪そうな那岐に遠慮してか、ひっそりとおとなしく隣を歩いていた千尋が、不意に
大きな声を上げて手を振った。つられるように那岐も千尋の視線の先を確かめる。
黒っぽいセーターに濃い色のデニムを合わせて、まるで全身影のようないでたちで、きり
りと背筋を伸ばして歩く人影が見えた。
「お兄ちゃん!」
弾んで高くなる声。花が開くようにほころぶ顔。今にも駆け出しそうな足取り。眼差しに
こもる熱。
一心に見つめる、その瞳。
声が聞こえたのか、影のような姿の青年は足を止め、振り返った。黒っぽいいでたちの中、
襟元にのぞくシャツとあまり日に灼けない頬の白さが際だつ。その顔が、千尋を認めてに
こりと笑んだ。近寄りがたい印象を与える顔立ちだが、その微笑みは柔らかく優しくて、
那岐でさえもどきりとする。
……ほら。
たまりかねたか、忍人に向かって駆け出す千尋を見送って、那岐は小さく笑った。
恋とは、こういう瞳と表情でするものだ。
千尋はおそらく、自分の思いを隠しおおせているつもりでいるだろうが、那岐はもうずっ
と前から、千尋が忍人に寄せる思いのことを知っていた。いつ気付いたのか、自分でも思
い出せないほどだ。
忍人は、千尋のようには感情を露出させないが、それでも彼も、千尋のことを愛おしんで
いると那岐は思う。千尋に向ける表情のやわらかさは、他の誰に向けるものとも違う。
もちろん、守らねばならぬ対象として、那岐や風早を見る目と千尋を見る目を同列にくく
るわけにはいかないが、それを割り引いても、忍人が千尋に向ける表情には、妹や家族に
対するもの以上の何かがある。
……こんな視線のやりとりを毎日見ていたら、千尋が自分を好きだと勘違いすることなん
てありえないよ。
那岐はこの場にいないクラスメートに向かってこっそり独りごちた。それから改めて、数
歩先にいて自分が追いつくのを待っている二人を見やる。
寄り添うように、けれども決して触れあわないよう、かすかな隙間をあけて立つ二人。本
来あるべきではない異世界にいるからなのか、それとも何か別の理由のためなのか、決し
てそのわずかな隙間を埋めようとはしない二人。手をつないでいるときでさえ、紙一枚、
薄布一枚の、踏み込まない一線を生真面目に守っている。
那岐には、それがいつもとてももどかしい。
くっついちゃえばいいのに、と乱暴なことを言いたくなる。ここでも豊葦原でもいい。ど
こでもいいから、早く幸せになるといい。互いの手を取り、ひたりと寄り添いあいさえす
れば、この二人ならきっと幸せになれるはず。そしてできれば、その幸せな風景を、傍ら
にあって見ていることを許してほしい。
……変かな。
自分のその願いに、那岐は少しだけ首をかしげた。
そんなやつが傍にいたら、邪魔かな。…邪魔だよな。
冷静な理性と、でももしかしたら、あの二人なら、那岐になら、それを許してくれるので
はないかと思う感情とが、那岐の中でせめぎ合う。そして、許してほしいな、と、那岐は
さっきかしげたのとは逆の方向に、少しだけ首をかしげる。
那岐は、千尋が好きで、忍人が好きで、二人が幸せそうに笑うのを見ているのが好きだっ
た。二人の幸せを見守ることが、那岐の幸せだった。
「那岐?…どうしたの?早く帰ろう?」
考え込んでしまって歩みが遅くなった那岐を、千尋が呼んだ。
ここへおいで、と。
顔を上げてそちらを見た那岐を慈しむように、忍人が笑っている。ここへ来たばかりの頃
は決して見ることがなかった、落ち着いて穏やかな眼差し。ゆらめく気持ちを落ち着かせ
る大地のような暖かさ。
「那岐」
そして忍人も那岐を呼んだ。
ここへおいで、と。
「……」
那岐は小さく肩をすくめて笑い、少し足を速めて、幸せなその場所へ向かって歩き出した。
大切な人たちの傍らに共にあるために。