そよ風と私 部室のドアを開けると先客がいた。 「…あ、部長」 先客は顔を上げ、ハルを見て首をすくめる。 「…もう部長じゃない」 笑いを含んだ指摘に、ハルも小さく照れ笑いした。 …確かにそうだ。オケ部の執行部は夏のコンクール終了後に代替わりをしたので、律はも う部長ではない。…けれどつい、習慣でそう呼んでしまうのだ。 「その、…如月先輩」 響也のことは響也先輩と呼んでいるのだから、律のことも律先輩でよさそうなものだが、 なんとなくためらわれて呼べない。それはなぜか他の一年生オケ部員も同じようで、響也 先輩と如月先輩で区別はつくからいいじゃんと、なんだかんだでみんな、律を如月先輩と 呼んでいる。 律を名前で呼ぶのは結局、弟の響也と幼なじみのかなで、そして大地だけだ。 「自習ですか?」 本来まだ六限の授業中だ。だからハルは部室には誰もいないだろうと思っていた。 「水嶋もか?」 「ええ。実技の時間なんですけど、チェロの先生がお休みで、チェロだけ自習に。…練習 室が空いていないので、ここでちょっと譜読みをさせてもらおうと思ったんです。…如月 ぶ…先輩は?」 一瞬また部長と呼びそうになったことに律も気付いただろうが、眼を細めただけで何も言 わなかった。 「引退演奏に選ぼうかと思った曲の譜面を探している。…どこかにあったと思うんだが」 「決まったんですか?」 オケ部の三年生は、伝統的に11月の文化祭のコンサートで引退する。普通科の運動系の 部活に比べれば遅い引退だが、ほとんどが音楽科の生徒で内部進学するので、のんびりし ているのだ。 コンサートでは数曲演奏し、だいたいは新執行部が曲を選定するが、引退演奏の曲だけは 三年生が選曲して下級生に提示する習慣になっている。 「いや、まだ決まったわけじゃない。…だがまあ、俺に一任すると言われているから、決 まったようなものかもしれないな」 「さすがに信頼されていますね」 「そうじゃない」 感心したようなハルの眼差しに、律は苦笑した。 「水嶋は知らないな。…去年の先輩達は、どの曲を引退演奏に選ぶかで、二つのグループ に分かれてすったもんだしたあげく、決まらなかったんだ。…しかたがなく、前部長の一 声で、最初の双方の主張とは全く関係のない曲になってしまった。…どっちを選んでもま たもめるからだろうな」 大人げない、とぽそりつぶやいたハルの声に、俺たちはまだ子供だよ、とからかうように 言って、律は話を続ける。 「俺たちの学年はそれを間近で見ていたから、あんなふうにもめるよりは最初から俺に任 せると」 「つまり丸投げってことですか」 「そうとも言うな」 律はハルの言い方がおかしかったのか、くすくすくすくす笑った。 「まあ、それでも一応、一つだけリクエストされていることはある」 「何ですか?」 「俺たちの学年のカラーで曲を選んでほしいと」 「三年生の…だと、ブルーですか?」 星奏には学年ごとに統一カラーがあり、衿のラインやタイなどに使われる。ハルたちは赤、 かなでや響也は黒、律たち三年生は青だ。ハルは真面目に言ったのに、律はまたくすくす 笑い出した。 「そういう意味じゃないんだ。言葉が悪かったな。俺たちの学年の特徴と言った方がわか りやすいか」 そこでふと、律は真顔になった。 「水嶋は、俺たちの学年の特徴は何だと思う?」 「は?」 一瞬聞き返しはしたものの、答えにはまごつかなかった。考えるまでもない。今年の三年 生の柱は律だ。 「如月先輩がいること、ではないですか?」 きっぱり言うと、律は片目だけをすがめるようにして笑った。 …あれ、如月先輩ってこんな笑い方をする人だったっけ、とちらちりと思う。…まるで、 他の誰かみたいな…。 「……特徴を人物で表す発想は悪くないが、残念ながら、俺じゃない」 わからないか?…律は静かに笑っている。水嶋には一番身近な存在だと思うが、と前置い て。 「…大地だよ」 ぽつりと言った。 「…あっ」 律の言わんとすることが、おぼろげにハルにも見えてくる。 「以前はどうか知らないが、ここ数年のオケ部で、普通科の部員がいるのは俺たちの学年 だけだ。俺たちを特徴づけるものは、大地の存在なんだよ」 優しい瞳が見ているのは、本当に自分だろうか。…ふとハルは思う。…彼が見ているのは ここにいない誰かではないだろうか。 「そのことをテーマに引退演奏の曲を選ぼうと思ってる。だから最初は、普通科の生徒に も親しみやすい曲を選ぼうと思ったんだが、それだとどうにも的を絞れなくて」 話しながら、律は楽譜の探索を再開した。もうほとんどの棚は探し終えたと見えて、今は 一番隅の棚から順番に楽譜を引っ張り出している。 「だから方向を変えたんだ。大地をイメージして曲を選ぶ。その曲を知らない人でも楽し めて、軽やかで明るい…ああ、こんなところにあった」 引っ張り出して、軽く積もったほこりをふっと吹く。ハルは寄っていって、その譜面のタ イトルを読んだ。 「…アンダルーサ…?」 「同じタイトルの曲はいくつかあるが、これはレクォーナのスペイン組曲の中の一曲だ。 元々はピアノ曲だが、管弦楽編成の演奏も多い。ポップスにもなっていて、そっちでは『そ よ風と私』というタイトルがついている。こちらのタイトルの方が通りがいいかもしれな いな」 言われてもすぐにはどんな曲だか思い出せない。ハルが必死に譜面を読んでいると、たぶ ん既に調弦はすんでいたのだろう、傍らのヴァイオリンを取り上げた律が、そっと弦に弓 を滑らせた。 優しくて柔らかい、…明るい春の光のような、それでいて確かにスペイン風の明暗のコン トラストを感じる旋律が流れ出す。確かに聞き覚えのある曲だ。ワンフレーズ弾いて、律 はそっとヴァイオリンを下ろしたが、ハルの中では続きのメロディが流れ始めていた。 「…確かに、…榊先輩みたいな曲ですね」 律は何も言わず、口元だけで笑って肩をすくめた。…その仕草にハルはまた、ああほら、 と思う。誰かに似ている。今度は、考え込まずとも答えが出る。 …そうだ、大地だ。どこか悠然と、環の外側から人を見ているような、それでいて親しみ やすい表情。 気付いた瞬間、口走っていた。 「…今気付いたんですけど、…如月先輩は榊先輩に似てきましたね」 「…俺が?」 そんな風にきょとんとすると似てませんけど、とハルは笑う。 「でも、笑い方とか仕草とか、時々、…あ、似てるって思います。…きっと、ずっと一緒 にいて、仲良しだからですね」 ハルとしては他意はない一言だったのだが、言った瞬間、律の白い貌がじわりと赤く染ま って、彼は少しうつむいた。その様子にふっと気付く。 …ああ、そうか。…自覚したんですね、先輩は。 春、出会ったばかりの律だったら、きっとこんな反応は見せなかった。そうか、と受け流 して終わっただろう。 何があったかは知らない。でもきっと何かがあって、律は変わった。 暖かく祝福したい気持ちがじわりとわいてきて、…でもその隅っこに、ほんの少しだけ意 地悪したい気持ちもあって。…本当に意地悪したいのは大地にだけど、律にもほんの少し だけ、…少しだけ、意地悪してみたくて。 「…仲良しで、大好きだからですよね?」 首をかしげて、律をのぞき込む。 「……たたみかけないでくれ、水嶋…」 とうとう、口元を手で覆ってうつむいてしまった律を、ハルは笑う。 涼しい風が、ふわり吹いてくる。秋の風は冷たくて、ハルの心も少しひんやりとするけれ ど。 あなたという光が暖かければ、…僕はもうそれでいい。