白檀薫りて 初めて身体をかわした後で、 「女の子やないから。一度や二度抱かれたところで、何も変わらへん」 とつぶやいた。 相手の俺に言っているというよりは、自分に言い聞かせているらしい一言だった。どこか 空々しく、虚ろな声で。 俺は、君を変えたつもりだったのに。 …やはり触れてはならなかったかと、俺は、その時初めて少し悔やんだ。 俺の変化に真っ先に気付いたのは、皮肉なことに律だった。 「…音が変わったな」 練習の後にぽつりと言われて、俺は呑気に聞き返した。 「え?誰の?」 「気付いてないのか」 律は眼鏡のブリッジを押し上げ、俺をまっすぐに見る。 「お前だ」 「…俺?」 どきりと、した。 あの日土岐と身体をかわしたことは、誰にも言っていない。…少なくとも俺は。 …まあ、土岐がべらべらと他人に話していれば別だが、あいつだってそんなことはしない だろう。…だから、誰にも気付かれていないと思っていた。 それなのに。 「何が違うかと言われれば、説明しづらいんだが、…ひどく響くようになった」 「……ひびく?」 問い返す俺の声は、ささやくようにかすれていた。動揺を悟られたくなくて平静を装った つもりだったが、どうもあまり功を奏していない。 だが、ありがたいことに律は自分の説明を補う言葉を考えるのに必死で、俺の様子がおか しいとは思わなかったようだ。 「実際の反響や残響という意味ではないんだ。…何といえばいいのか、……心に響く」 「……心、に」 「…ああ」 ふと、律が俺を見た。何かを確かめようとするそのまっすぐな瞳に対して、一瞬怖じけづ きそうになった自分を、俺はひっそりと恥じた。 「お前の音は、華やかな明るさと朗らかな軽さが特徴だった。…でも、軽さがずいぶん落 ち着いた。……低く鎮まって、響くんだ」 ここに、と律は胸を押さえた。そのまま黙り込む。…俺は、おずおずと聞いた。 「よくない、ことかな」 律は我に返った様子ではっとした。 「…いや。…何故?」 「その…軽さが俺の音の身上だったのなら、よさが消えているのかと思って」 ふ、と律は笑う。…優しい笑顔だった。 「確かに軽さはお前の武器だったが、ヴィオラの音には落ち着きも必要だ。…むしろいい ことだと思う」 俺を安心させるように、ぽんと肩を叩いた、…その律の手は確かに温かいのに、俺の心に 落ちてきたのは重い冷たい塊だった。 俺は、律に顔向けできないようなことをしている。 その事実は暗く重く、後ろめたい。……それなのになぜか、呑み込んだ苦いつばは、俺の 喉の奥に何かとろけるように甘いものを残した。 いつもの四つ角で、寮に帰る律と別れる。まっすぐ家に帰るつもりだったが、俺はふと、 途中にある児童公園に立ち寄った。 まだ夏休み中とはいえそろそろ八月も終わる。日も少しずつ短くなってきた。たぶんその せいだろう、薄暮に沈む公園には、遊ぶ子供の姿も憩う大人の姿もない。ただ遊具がぽつ りぽつりと、誰にも省みられずにうずくまっている。 俺はぶらんこに近寄って、きい、とその鎖を揺らしてみた。 耳障りに響く音。 「……」 俺は、律の言葉を思い出した。 俺の音は、律の耳にどう響いているのだろう。 「……」 ……あの男には、…どんなふうに響いているのだろう。 その顔を脳裏に思い浮かべたとたん、あの夜のことを思い出した。 じりりと腹の底が焦げるような感触に、己の浅ましさを思い、嗤う。 何をされても、やはり彼は泣かなかった。涙の代わりにこぼしたものは、ただ吐息だけ。 めちゃくちゃに泣かせたかったのに、彼の声は上擦りもせず落ち着いて、…時折、俺の名 を呼んだ。 「…榊くん」 そう、…そうやって、静かに俺を…。……!? 俺はぎょっとして振り返った。 見覚えのある人影が、公園の入口に佇む。 「……!」 …一瞬幻かと思った。 「……土岐…」 彼は、かすれる俺の声に応えるようにうっすらと笑ってから、ゆっくりと長い影を曳いて 近づいてきた。 「今日は、寮に行かへんのん?」 彼が俺のすぐ傍で立ち止まると、ふわりと白檀が薫る。……幻ではなかった。 「こんなとこでたそがれて、どないしたん」 俺は目を閉じた。首を何度か横に振り、息を吸う。苦い笑いがこみ上げる。 「…俺もどうかしてるなあって、考えているところだよ」 「どうかしてる?」 「…土岐の顔を、思い出してた」 「…俺の?」 へえ、それはそれは光栄なことやねえ、とかなんとか言われるかと思った。だが彼は静か に首を傾けて、それで?と静かに俺を促す。 「…もっとめちゃくちゃにしたかった」 「…」 土岐は一瞬静かに息を吸って、 「…ケダモンの発想やね」 低く嗤った。 「だろう」 俺も嗤う。 「…せやけど、ケダモノっていうなら、たぶん俺も同類や」 「……」 一歩、土岐が俺に近づく。 「あの日から時々、思い出しとったよ。…まためちゃくちゃにされてもいい、されたいっ て、…思とった」 唇に指を一本当てて、秘密をばらすかのようにひそやかに笑う。 「…口の割に、榊くん、エッチの時は優しいしな?……本気で、もっとめちゃくちゃにし てもええのに」 「……土岐…っ」 ずい、とまた一歩近づいて。眼鏡のフレームが、…否、唇さえ、触れるかと思うほどの近 さで、俺にささやく。 「…なあ?…俺、これから菩提樹寮に帰るつもりやったけど、…行き先、榊くんに任せる ことにしたわ」 「……なっ…」 「…決めて。…寮に行くか、それとも」 眼鏡の奥の瞳が、ねだるような艶を帯びた。 「どっか別のところに、…二人で行くか」 俺は目を閉じ、息を吸った。 ……逡巡は、なかった。 「…土岐」 名を呼んで、身体を少し傾けた。土岐は逃げない。 ふわりとまた、白檀が薫る。 「…」 …唇がふれあう。偶然ではないと証明するように、俺は舌先で土岐の舌を探り、吐息を絡 めた。…深く、長く。 ……それが俺の、答えだった。