CALL OFF 改札の向こうで、一度だけ振り返って手を上げた。…その後は一度も振り返らず、蓬生は 人波に消えた。 応えるためにあげていた手をゆっくりと下ろすとき、手首の内側、皮膚の薄いところに蓬 生が残していった赤い痕が目に入った。贖罪のように苦しそうに、大地の手首に蓬生が繰 り返し口づけたのは気付いていたが、痕になっているとは思わなかった。 「……」 大地はゆっくりと息を吐く。 思い出すのは、自分がかつて蓬生につけた腕の痕。しがみつくのが怖いとうなだれた瞳を 自分に向けたくて、彼の腕をつかんで残した指の痕。 −……あの日の俺に、迷いはなかった。 蓬生が誰よりも愛している相手が千秋でも、自分の中の律への思いに目をつぶってでも、 蓬生へとまっすぐに向かう気持ちがあった、…けれど。 −……東金が呼ぶと、土岐の心には羽が生える。 小鳥が穴の開いた籠から逃げ出すよりも容易に、どんな力で引き留めても、彼はふわりと すり抜けていってしまう。自分を惹きつける太陽のところへ。 −…どだい、空を飛ぶ鳥のような相手を地面に縛り付けられると思っていたのが間違いだ ったのかもしれない。 いつからだろう。千秋の元へと飛んでいく彼を、引き留めようとしなくなったのは。いつ からだろう。彼をつかまえておくことをあきらめてしまったのは。 行けばいいよと、本心でもないことを優しくつぶやいて送り出す。蓬生の99が千秋のも のでも、1が自分にあればいいと心に言い聞かせて。 −…俺は、本当にそれでいいんだろうか。 いつ失うかわからない恋を、このままずっと心に抱いて。 −…蓬生。俺は確かにあの日、せかずに君を待つと約束した。…けれど。…期限のない約 束が、こんなに辛いものだとは思わなかった。 −…まだ、待てる。……まだ。…でも、もし、…もしも、この思いが限界にきたら。 大地は、苦いため息をついた。 −…たとえそれが君を失うことになっても。…俺はいつか、君を動かす賭に出てしまうだ ろう。君との約束を反故にして。 いつか。…たぶん、そう遠くない、いつか。 大地はそっと、自分の手首に口づけた。赤い痕には蓬生の移り香すらなく、ただ自分の体 温がじくりと熱いだけだった。