チャトランガ

突然がたん!と音がして、どこかの部屋の扉が開いた。
こらえきれない怒りを必死で我慢しているような、響く足音が部屋の前を通り過ぎていく。
早さと歩幅からしてどうやら忍人だと、宿題をさせられている羽張彦につきあっていた風
早は、戸口から顔をのぞかせた。
案の定、廊下を遠ざかっていく背中は忍人だった。駆け出さないのを必死で我慢している
風だ。やがて回廊の途中、彼の部屋にその姿が消えると、再び、ばしん!という派手な音
をさせて扉が閉じられた。
「なんだおい。…忍人か?」
宿題の石版を手に持って、羽張彦も戸口から顔を出す。閉じられた扉の場所から判断した
のだろう。風早は苦笑で、反対側の廊下の先をちょいちょいと指さして見せた。…開いて
いるドアは、風早と柊が寝泊まりしている部屋だ。
「ひいらーぎ」
羽張彦が口の横に手を当てて呼びかけると、チャトランガのコマをからからいわせながら
柊が部屋から出てきた。
「…お前、またこてんぱんにしたのか……」
羽張彦はため息とともに額を押さえた。風早の表情にも苦笑いがにじむ。
「ほどほどにしろよ、子供相手に」
柊は肩をすくめる。
「どうせお前のことだから、また平手でやったんだろ。駒落ちくらいしてやればいいのに」
羽張彦が腕組みをして言うと、
「駒落ちでやったらそれはそれで怒るんですよ」
柊はわざとらしく首をこきこきと鳴らした。
「こちらだって、あまりに差がある勝負よりはほどほどに戦える方がいいですからね。車
と馬くらい落とそうと思って並べていたらがみがみ怒られました。対等な勝負をしろと」
「……うーん」
羽張彦はうなった。風早は、苦笑をこらえこらえ、感想を口にする。
「なんというか、彼らしい発言だね」
その言葉に、柊は少し意地の悪い笑みを向けた。
「子供らしい傲慢な言い方でしょう?ああいう、努力してできないことは何もないって言
いたげな子供を見ると、いじめたくなるんです」
「…」
風早は、少し片眉を上げた。
「もういじめてるじゃないかよ、十分……」
羽張彦はひたすら忍人を気の毒がる。そこへもっと言葉を重ねかけて、柊は風早の反応に
気がついた。
彼が今浮かべている子供をなだめるような笑顔は、どうやら忍人に対してのものではなく、
自分に対してのもののようだ。
「…風早?」
「何?」
「何か言いたそうな顔ですよ」
「いや、別に。……ただ、…君や羽張彦が思うほど、忍人は子供じゃないと俺は思うから」
「…」
「何言ってんだ、風早。忍人は子供だろう」
「君は弟がいるからなあ。…どうしてもそう見えるんだろうね」
そういえば、と柊はふと思う。
忍人は、羽張彦や自分には、子供扱いするなと突っかかってくるが、風早には何も言わな
い。
「どうせやるなら柊、忍人をちゃんと大人扱いして、その上でこてんぱんにした方がいい
よ。そうすれば、しばらく突っかかってこなくなんじゃないかな。……つっかかってほし
いなら、止めないけど」
「…言っている意味がよくわからないんですがね、風早」
「そうかい?なら聞き流してかまわないよ。…羽張彦?どこに行くんだ?…宿題、終わっ
てないだろう?」
こっそり逃げだそうとした兄弟子の首根っこを捕まえて、風早はずるずると部屋の中に入
っていった。引きずられている羽張彦はまだ、「ほどほどにしてやれよー」と言っている。
だが、その言葉は柊の耳にはほとんど届いていない。チャトランガの駒を片手でもてあそ
びながら、柊は風早の言葉を反芻していた。

岩長姫の屋敷には常に何人かの弟子たちがいたが、たいていは13〜4で成人の儀をすま
せてから弟子入りしてくる。橿原宮に宮仕えする身分になってからあわてて飛び込んでく
るような者もいる。だから、10になるやならずやで弟子入りしてきた忍人は飛び抜けて
幼い存在で、入門して1年過ぎた今でも、新しく入ってきた弟子にさえ子供扱いされては
毎日ぷりぷり怒っている。
とはいえ、剣の腕はすでに別格の存在だった。岩長姫の忠告に従って二刀を扱うようにな
ってからはなおのこと、それこそ鬼神のようなと呼ぶにふさわしい姿を見せることもある。
柊とは、得意な獲物が違いすぎて、あまり手合わせをすることはないが、最近では風早や
羽張彦でさえ、3回に1回くらいは負かされるらしく、中庭で時折、「参った!参ったっ
て!」と大声で叫ぶ羽張彦の声が聞こえることもある。こと、剣に関しては彼らも忍人相
手に手加減はしないはずなので、本当に彼らと渡り合えているのだろう。
読み書きはとうに達者、大きい族の息子だけあって、宮中のしきたりや細々した祭祀の知
識もそこそこある、とくれば、彼をぎゃふんと言わせるのは、自分のチャトランガくらい
しかないではないか。
そして忍人もそこをよくわかっていて、時間を見つけては、自分に向かって挑んでくるの
だ。
「そうやってひどくむきになるところが、子供だと思うんですがね」
柊は一人ごちてみた。
風早の、何か言葉の裏に隠しているような表情が思い出される。
風早は何を言いたいのだろう。
柊は自室の寝台に寝そべって、ぼんやりと考え込んだ。
…そういえば、今日は妙に風早の帰りが遅いな、とふと思ったとき、かたかた、と遠慮が
ちに部屋の戸がたたかれた。
「…?」
立っていって開けると、忍人が立っている。片手になにやら竹簡と竹筆を握っていた。
「…忍人?」
「風早は今夜、宮中に宿居をするからといってさっき出て行った。出て行くときに、今日
は風早の寝台で柊と一緒に寝てやってくれと頼まれたんだ」
そう言って彼はずかずかと柊を押しのけ、部屋に入ってきた。風早の寝台にぽん、とお尻
をのせて、竹簡を広げる。
「……はあ?」
柊はあっけにとられていたが、ようやく我に返った。
「なぜ私が君に一緒に寝てもらわなければいけないんですか」
「俺もそれが不思議で風早に聞いたら、柊は夜暗いのが怖くて、一人ではばかりへ行けな
いからだと言っていた」
………。風早……。
「…そんなわけがないでしょう…」
どっと疲れて、柊も自分の寝台に腰を下ろす。真正面に向かい合って座っている少年は、
竹簡になにやら書き付けながら、
「うん、そうだろうと思う」
とけろりと言った。
「…?」
してみると、この子は風早の大嘘を信じてこの部屋に来たわけではないのだ。
柊が忍人の表情をうかがっていると、うかがわれていることに気づいたか、忍人は竹筆を
置いてまっすぐに柊を見た。
しっとりとした黒い瞳が、那智の黒石のようだ、と柊は思う。
「でも、そんなばかばかしい嘘をついてまで風早が俺をここに来させようとしているなら、
俺に言えないけれどなにかしらここで寝てほしい理由はあるんだと思う。…今夜一晩だけ
だから、我慢して寝てくれ、柊」
理路整然とした物言いだった。…そういう言われ方をすると、追い出す理由がなくなって
しまう。
柊はわざとらしいため息をついてみたが、忍人はかすかに眉を上げて柊を見ただけで、す
ぐにまた手元の竹簡に目線を落とす。
「……?」
彼が書き付けているものが普通の文字ではないように思えて、柊はふとその手元をのぞき
込んだ。
車、象、将、などという文字と数字がいくつか、小さな字で書き込まれている。
「……それは?」
「チャトランガ」
「チャトランガ?」
…確かに、象や将というのはチャトランガの駒の名前だが。
「チャトランガの勝負の駒の動きを、順番にマス目の数と駒の名前で表してある。手合い
が少ない間は、自分が経験した勝負を頭の中で覚えておけたんだけど、だんだん勝負が増
えてくると覚えきれなくなってきたから、こうやって書き付けておくようにしてる。そう
すれば、似たような展開になったときにすぐに思い出せるから」
こちらの世界でいうところの将棋の棋譜のようなものだが、豊葦原にそういう概念はない。
「誰かに教わったんですか?」
「いや、自分で考えてみた。…小さな字で書けるから、竹簡もたくさんは使わないし、書
き損じの竹簡も使える」
まじめに書き付けている様子を見ながら、柊は軽く鼻を鳴らした。
「……?」
忍人が顔を上げる。まっすぐな、まじめな瞳を見ていると、やはりなんだかむかむかして
きた。
「…先に寝ます。灯りを消すのを、忘れないでください」
「うん。まぶしかったらすぐに消す。すまない、柊」
竹簡を竹筆が刻むかりかりという音を背中で聞きながら、柊は固く目を閉じた。
……そうやって努力していれば、いつかは俺に勝てると思っているんでしょう?
薄ら笑いが唇をよぎる。
……けれど、どんなに努力しても君は決して俺には勝てない。…俺には、未来が見えるか
ら。勝負の先が見えているから。
けれど、どんなに負かされても、彼はまた自分に向かってくるのだろう。自分は勝てると
信じて。…その傲慢さが耐えられない。
歯を食いしばっているうちに、柊はいつしか眠りに落ちていた。

目を開けると、そこになぜか一ノ姫がいた。
「……姫?なぜここに?」
「なぜって…柊が一緒に行こうと言ったんでしょう?」
黒いしなやかな髪を揺らしておっとりと彼女は笑う。
「羽張彦は少し先に行ったわ。…歩きながら寝ていたの?」
「…え…あ、いや…」
……そうだ。…何をぼうっとしていたんだろう。自分は今、常世の国へ行くところではな
いか。姫と、羽張彦と。
常世の国に現れた黒龍は、皇をそそのかして中つ国を滅ぼさせようとしている。その未来
を見た柊は、姫と羽張彦とともに、黒龍を滅しにきたのだ。
「初めて通るわ、常世へ続く洞窟。意外と枝道があるのね。どうしてみんな迷わないのか
しら」
「細い道に入らないように入らないようにしていけば常世に着きますからね。…羽張彦は
もっと前にいるんですか?」
「そんなに離れたはずはないんだけど……、…ああ、いたわ。あそこに。ほら」
「…ああ」
ほっとして姫の指さす方を見やって、柊は身体中の毛が総毛立つのを感じた。
振り返って、姫と自分に手を振る羽張彦。その背後に、赤い太陽のように燃え上がる黒い
龍の姿がぼんやりと浮かび上がり、たちまち明確な形を取って、真っ赤な大きい口を開け
る。…羽張彦を飲み込もうと、かみ砕こうと、その口が、背後に気づいていない羽張彦の
頭の上に……。
「………!!!」
一ノ姫が声にならない悲鳴を上げる。柊も、腹の底から精一杯の声で叫んだ。
「羽張彦!!!!!!」

「………彦!!!!!」
柊は、がばっと身を起こした。
そこは、月明かりが差し込む自室の寝台だった。
一ノ姫も、羽張彦もいない。もちろん黒龍の姿もない。
「……また、この夢か……」
最近、二度に一度はこの夢を見る。細部が多少違うことはあるが、ほぼ同じ夢だ。一ノ姫
と羽張彦と自分が常世の国に向かい、黒龍と戦い、破れる夢。
…わかっている。これは本当は夢ではない。…星の一族の力が、夢の形を取って教える、
これから先に自分に訪れるはずの未来だ。
「………っ」
この未来は変わらないのか。どうあっても。どんなに細部が変わっても、我らが黒龍に敗
れてしまうことは、変えようのない未来なのか。
忍人がチャトランガで決して自分には勝てないように。
「…忍人?」
そういえば。起こしたのではないか?と、柊は隣の寝台を見やる。
だが、そこには誰もいなかった。
「……?」
自室に帰ったのかと柊が首をかしげたときだった。
そっと、音を立てないように気遣いつつ、部屋の扉を肩で押し開けて忍人が入ってきた。
その手に手巾を一枚と、器を一つ持っている。寝台の上に起き上がっている柊を見て、彼
は片眉を上げた。
「…起きたのか、柊」
差し出された手巾は濡らされて固く絞ったものだった。
「…忍人?」
「ひどくうなされていた。寝汗もずいぶんかいているようだったから。これで、顔だけで
も拭くといい。すっきりする」
「………あ」
「あと、これは水」
もう片方の手に持っていた器も差し出して、忍人は最初に部屋の中に入ってきたときのよ
うに、ぽん、と風早の寝台にお尻をのせた。
「……ありがとう」
礼を言うと、ふるふる、と彼は首を横に振った。落ち着いた指示に対して、座るしぐさや
そうやって首を振る様子だけが、妙に子供っぽい。
「…起こしてしまいましたか」
「…いや、寝台が変わったせいか、すぐには寝付けずにいたんだ。…そうしたら、柊がう
めき始めて…」
だんだん苦しそうになっていったから、とりあえず水と手巾でもと思ったんだけど。
「…風早が気にしていたのがこのことだったなら、そばにいた方がよかったかもしれない。
ごめん、柊」
「…いや、俺も、こんなふうにうなされて起きたのは今夜が初めてのはずです。…夢には
っとなって起きても、風早は隣でぐうぐう寝ていたから」
…いや、もしかしたら気づかれていたのかもしれない。気づいたことを知らせないように、
寝たふりをしていただけで。……そして、忍人に来るように言ったのかも。
でもなぜ忍人に、という思いをとりあえず心の底に押し込めて、柊は忍人に手巾をさしの
べた
「………手巾をどうもありがとう、忍人」
返された手巾を受け取りながら、忍人はまっすぐに柊を見ている。
「……柊は、厭な夢を見たのか?」
柊は口元をゆがめた。が、うなされている姿までみせてしまったのに、今更ごまかすこと
もできない。
「ええ。…怖い夢をね」
忍人がかすかに目を見開いた。
「同じ怖い夢を、何度も見るんです」
そう続けると、なぜか彼はほうっと安心したような吐息をついた。
「……よかった」
「……え?」
この話の流れでなぜそう言われるのかさっぱりわからず、柊は怪訝な顔をした。
「柊にも怖いものがあるんだな。…なんだか、安心した」
「……?」
ずっとうつむいていた忍人はようやく顔を上げて、あからさまに不審げで怪訝そうな柊の
顔を見て、今度ははっきり吹き出した。
「…ごめん。柊にはなにがなんだかさっぱりわからないだろう。……でも俺はずっと、柊
が心配だった。…柊はいつも、自分には怖いものなんか何もないって顔をしていたから」
「……」
「怖いものがないと言う人は、一度恐怖を知ってしまうととてももろい。強ければ強いほ
ど、こわれやすい。…柊は、とても強いから。だから余計に心配だった」
確かに、自分はいつも虚勢を張っていた。自分には怖いものはないと、誰に対しても斜に
構えていた。
道臣は、そこに気づきながら、その部分には決して触れないように距離を置いていた。
羽張彦は、その虚勢に気づかず、お前となら一緒に何でもできる、と笑ってくれた。
風早は、その虚勢に気づいているのかいないのかはっきりとは自分にわからせなかった。
おそらくは気づきながら、全てを丸呑みして自分に接してくれていたのだろう。
そしてこの子供は。柊の虚勢を虚勢とは気づかず、しかしずっと気遣っていたのだという。
柊は、今ようやく風早の言葉を飲み込んだ。
……忍人は、君が思うほど子供じゃありませんよ。
……確かに。恐怖してもろくなる人の弱さを語れるなら、その人物はすでに子供ではない。
「……君にも、…怖いものがあるんですか?忍人」
しかし、この子供こそ、怖いものなど何もないという顔をしているのに。
「俺は、負けることが怖い」
言ってから、忍人はまた小さく笑った。
「チャトランガのことじゃないよ。…剣の話だ。…チャトランガで負けても死なないけど、
剣を持った戦で負けることは死につながる」
漆黒の瞳から、子供らしい表情が消え失せる。いや、感情の全てが見えなくなる。
「……、…死ぬことは、怖い」
低い声。…前半部分は聞こえなかったほど、重苦しく静かに低い声。
…この年で、彼はいったい死に対して何を知っているのか、と、柊がかすかに恐怖するほ
どの声だ。聞こえなかったところは、……のとおりに、と言ったような気もしたが、いっ
たい何のとおりなのかはわからなかった。
声を少し明るくして、忍人は言葉を続ける。
「だから、俺は死なないように努力するし、俺の知っている人には誰にも、簡単には死ん
でほしくない。……柊にも」
だから、柊にも怖いものがあると知って安心した。
言いながら、忍人はあふ、と一つあくびをした。…見れば、下弦の月が中天にかかってい
る。もうずいぶんと夜も深い。
「…ありがとう忍人。…もう休んでください。今夜はもうこれ以上、厭な夢は見ないと思
うから」
「うん、…それじゃあ……」
もぞもぞと風早の寝台に潜り込みながら、忍人は急に眠そうな声になって、おやすみなさ
い、とつぶやいた。
「明日は、絶対、チャトランガで勝つから……」
…ほどなく、規則正しい寝息が聞こえてきた。ぱたりと睡眠に入ってしまうところはやは
りまだまだ子供だ。寝顔だけ見ていれば、まだ少女とも見まがう顔立ちをしている。
「甘いですねえ、忍人。……チャトランガでだけは、絶対に負けませんよ」
薄く笑いながら、寝ている忍人の耳元でそうささやいて、…柊も再び寝台に横になった。
ほどなく、優しい眠りが彼を包み込んでいく。柊は穏やかな心で、その眠りを受け入れる。
今度見る夢はきっと、狭い洞窟の中を進む夢ではなく、広い空の下を駆ける夢になる。
誰にも邪魔されずに、幸せをつかむ夢を、きっと見つける。いつかきっと。