コーヒーを飲みながら

にぎにぎしい夕食の最中。
手早く食べ終わった大地がふと、斜め前に座る東金に向かって身を乗り出した。
「なあ、東金。コーヒーの美味い店を知らないか?出来れば、今日泊まるホテルから近く
て、朝早くから開いてるところ」
「何だ、注文が多いな。起き抜けにコーヒーが飲みたいだけなら、ホテルのラウンジでも
飲めるだろう」
大地が無言で首をすくめると、千秋は破顔した。
「まあ、朝イチのコーヒーはうまいにこしたことないよな。…ちょっと待て、思い出す」
そう言って腕を組んだ千秋だが、さほど時間をかけて悩むこともなく、指をぱちんと鳴ら
した。
「一軒心当たりがある。ホテルからは少し歩くが、朝早くから開いている方がいいんだろ
う?」
大地がうなずくと、千秋はよし、と目を細めた。
「今から案内してやるよ。ぐるっと回ってそのままホテルに戻れば、明日の行き方も覚え
られる」
そう言った時にはもう立ち上がっている。
「みんなゆっくり食っててくれ。俺と榊は先に出る。…蓬生、会計任せた」
「勝手やなあ」
蓬生は鼻を鳴らしたが、別に引き留めるでもなくひらひらと手を振った。
「…いってらっしゃい」
律も顔を上げた。心配というよりはからかいが勝った目の色をしている。
「喧嘩するなよ、大地」
「大丈夫だよ、相手は東金だ」
「…どういう意味やねん、それ」
小声でぼやいた蓬生は、
「言葉通りの意味でしょう」
静かにつぶやく芹沢を小さく睨んだ。

千秋が案内したのは、古めかしい木の扉が重そうな、小さい喫茶店だった。柱もテーブル
も椅子も、なんだかすべてが黒っぽい艶のあるいい色に染まって、まるでコーヒーを吸い
込んだかのようだ。
扉を開ける前からコーヒーの店だとわかる香ばしい匂いがして、ちりんちりんと扉の鈴が
鳴ると、白髪の男性が穏やかにカウンターの向こうから笑いかけてきた。
そんな店だからドリップコーヒーばかりかと思えば立派なエスプレッソマシンが備え付け
られていて少し驚く。千秋はしかし、ブレンド二つとあっさり言って、さっさと隅の席に
陣取った。
「エスプレッソ派かと思ってたよ」
「普段はな。今日は少し、ゆっくり飲みたい気分なんだ。…エスプレッソが良かったか?」
「いや」
そうかと肩をすくめてから、千秋は頬杖をつく。
「で、俺に何の話だ」
「…っ」
千秋の前の席に座りながら、大地は苦笑した。
「何故俺が君に話があると思うんだ?」
「本当にコーヒーがうまい店を知りたいだけなら、蓬生に聞けばいいだろう。昼間ずっと
一緒にいたはずだし、そもそも俺とより蓬生との方が仲良しだろうが」
「…あれを仲良しというならね」
苦笑いを含んだ声で大地が応じると、千秋は嫌そうな顔をして右のこめかみ辺りの髪をが
りがりとかいた。
「…まさかとは思うが、お前、俺が気付いてないとでも思ってるのか?」
店主がカウンターから出てきて、水の入ったコップを置いていく。…大地はゆっくりと椅
子にもたれる。
「気付いて、たのか」
「…他の奴ならともかく、俺が蓬生のことに気付かないわけがあるか。……初手から気付
いてた。花火の晩だろ?」
言い当てられては笑い出すしかない。眉をしかめてくっくっと喉を震わせる大地を、千秋
は冷めた目で見つめている。
「…参った。…その通りだよ。……そうか、本当に最初っから気付いてたんだな」
ふっ、と笑い収めて。
今度は大地が冷めた目をした。
「そこまで気付いていて、なぜ土岐に何も言わない」
お、という顔をしてから頬杖を外し、千秋は大地を真似るように椅子にもたれた。…大地
よりももう少し胸を反らし、細めた目で見下ろすように大地を見て。
「…答えてやってもいいが、…その顔を見る限り、お前が蓬生にぐだぐだに溺れているわ
けでもないんだな。なら俺も一つ聞かせろ。お前は何故蓬生に付き合う」
大地は片眉を上げ、左手でこめかみから額にかけて少し締め付けるように押さえた。
「all or nothingで決めつけるなよ。…確かに、溺れるというほど理性を失ってはいない
けど、土岐への思いが全くないわけじゃない。…溺れているというよりは、ほだされてい
るってところかな。土岐があんまりお前に一途で、そのくせ素直にならないから、最初は
ひどくいらいらして、……一回とにかく泣けお前は!って思ったんだ」
千秋は一瞬鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして、…それからぷっと吹き出した。
「で、手を出したのか。…何というか、阿呆だな、お前は」
「……土岐にもしょっちゅう言われるけど、改めて他の人間からも言われると結構こたえ
るな、その一言」
「当たり前だ。蓬生と違って俺はお前に対して愛がない。…で?」
「…で、って?」
大地は本当に何を聞かれているのかわからないという顔でぽかんとした。
「さっき、最初はって言っただろう。…今はどうなんだ。最初とは違っているのか?」
「…そう、だな。……今は、馬鹿な子ほどかわいいって心境かな」
「……」
千秋はがしがしと頭をかいた。
「…なるほど。ほだされた、ね。…まさしくそうだな」
「…俺は答えたぞ。…東金も答えてくれるんだろう」
「ああ。…だが待て」
大地は一瞬むっとしかけたが、千秋は別に答えをじらしたわけではないようだった。ちょ
うどそのときコーヒーが運ばれてきたのだ。まるで会話が一段落するタイミングを店主が
計っていたかのようだ。…あるいは、事実そうだったのかもしれない。内容は聞こえずと
も、訳ありな雰囲気は伝わるだろうから。
まだ残暑は厳しいが、山頂で風に吹かれた後で、頭の切れる人間と丁々発止のやりとりを
している身には、ふわりとあたたかいコーヒーの湯気がありがたかった。
「なあ、榊」
呼びかけてから、さすがに店主をはばかってか、千秋は少し声を潜めた。
「お前もし、如月に自分を抱けと迫られたらどうする?…あいつを抱くか?」
「……はっ?」
不覚にも大きな声を出して聞き返してしまい、大地は慌てて口を押さえた。
「誤解するなよ。別に蓬生が俺にそんなことを迫ったわけじゃない。だが、もしそんな事
態になったとしたら、…どんなに請われても、俺は絶対に蓬生を抱かない」
「…」
「俺たちは男同士だ。もし体をつなげばその瞬間から、二人の間に別れるの別れないのっ
て選択肢が生まれる。だが、体をつながなければ、…親友としてある限り、そこに切れる
だの別れるだのって選択肢は生まれない」
大地は手で口を押さえたまま、ゆっくりと肘をついた。
「俺は蓬生を離す気はない。だから一生あいつを抱くことはしない。お前が如月に一切手
を出さないのも、無意識にそういう感情が働いているんじゃないかと思ってた。…今の顔
を見る限り、どうやら図星だな」
「……意識はしていなかったけどね」
だが。…蓬生の手を取ることにためらいはなかったのに、律には指を伸ばすことすらため
らい、友として許されるライン以上に踏み込むことを恐れた。
千秋の言うとおり、無意識ながら守っていたのだ。…生涯共にあるために、その線を。う
かうかと越えぬように。
「…東金がどう思っているのかは、よくわかったよ。…それを、ちゃんと土岐に説明した
か?」
「……」
今度は千秋が考え込む番だった。
「俺の所見でしかないが、お前の考えをたぶん土岐は誤解している。自分から何かアクシ
ョンを起こせばお前が変わると思ってる」
「…伝えたつもりだったが」
「自分の一部のような気がする。…そう言ったんだろ」
千秋は眉を上げた。
「なんだ。…蓬生の奴、そこまでお前に話してるのか。…どんだけなついてるんや」
一瞬だけ関西なまりが出た。このものに動じないような男がさすがに驚いたかと大地は少
し苦笑する。しかし、なつくとは。猫の子やなにかじゃないんだから。
「…お前の言うとおりだ。言った。そう言えば蓬生は、俺が一生蓬生に手を出す気はない
ことを理解すると思った。俺が自己愛に傾く人間じゃないとあいつは知っているはずなん
だ。…好きかと聞かれて、否定することなくもちろん好きだと受け入れて、…でも体をつ
なげる関係になる気はないと伝えたつもりだった」
「伝わってない」
「そうか」
「体をつなげないことにこだわる必要はあるのか?本人が望むなら、答えてもいいんじゃ
ないのか」
「その質問をまんま返すぜ。…如月律に関して」
ぐっと大地は言葉に詰まった。…守りたくて、大切すぎて触れられない友人。…彼が望め
ば、自分は彼に触れるだろうか。
………答えは、否。
だが、大地はなおも食い下がった。
「律と土岐は違う。律は男同士に恋愛が存在することを知らない。だからあいつは俺に、
親友としての俺しか望んでない。だが土岐は男同士に恋愛が成立することも、親友として
の一線を越えた先にその関係があることも知っていて、お前がその線を越えてきてくれる
ことを望んでる。もし答えてやらなかったら、親友のままだったとしても、少しずつ土岐
がお前から離れていくとは考えなかったか?」
「蓬生が?俺から?」
はっ、と千秋は笑った。
「あり得んな」
傲慢なほどの自信。
「……よくそこまで断言できるな」
「事実だからな。…お前が蓬生を籠絡したとしても、あいつは俺のそばから離れない。…
絶対、だ」
こういうのを何と言うのだろう。…自信?確信?
歴史上の事実にさえ、表と裏があるのに、この確信には一分のゆらぎも不安定さもない。
大地は喉が震えてくることに気付いた。嘆きのようで、笑いにも似て。こみあげてくる、
感情の塊。
「……土岐の手を離さないのなら、もう一度、言葉を尽くして説明しろよ。…それで、こ
の道化の役割は終わりだ」
千秋に説明されて、蓬生は泣くだろうか。…結局、願いは叶わぬままだった。彼に全てを
吐き出させたかった。吐き出したものを受け止めたかった。その体ごと。
「…機会があれば説明はするが、…ただ、俺が説明して蓬生が納得したとしても、そこで
お前らの関係が終わるとは俺には思えんがな」
「なぜ。…土岐を納得させられないから?」
「ちがう」
ふう、と千秋は息を吐いて。
「お前、悪い癖があるな。他人を観察しているのは自分だけだと思っているだろう。…違
うぞ」
「………」
「お前が蓬生を観察しているように、たぶん蓬生もお前を観察している。ほだされてるの
はお前だけじゃない。…蓬生だってお前にほだされている。考えてみろ。求めているのは
蓬生だけか?受け止めているのはお前だけか?」
違うんじゃねえのか、とぼそりと千秋は言った。
違う、と大地も思った。脳内に、あの扇子がひらりひらめく。
「自分だけが道化と思うな。蓬生だって道化だ。お前の中の如月の影に怯えて、それでも
お前の手を取ってる。…互いに納得して終わりにするなら話は別だが、すっと自分だけ後
ずさることで消してしまえる関係だとは思うな。お前らは、手と手を携えて、線を越えた
んだ」
ぐい、と千秋がテーブルの上に身を乗り出した。大地のネクタイのノットをぐいとつかん
で。
「…ついでに一つだけ言っておく。蓬生を泣かせてもいい。だが捨てるな」
「……っ」
「あいつは来る者拒まず去る者追わずに見えるかもしれん。だが、本当はそう装っている
だけだ。本当は人を失うことにひどく臆病で、だからこそ、去る者は追わないと自分に言
い聞かせることで自分を守ってる。……なぜそうなのかは、そのうち本人から聞け。俺は
言わん」
途中で千秋の言葉は不意に力を失い、その手もするりと大地のネクタイを離した。…明ら
かに、出過ぎたことを言ったと感じた顔だった。他の誰かのことなら、絶対に千秋はそこ
まで踏み込んで訴えてきたりはしなかっただろう。だが、蓬生に関してはらしくもなく度
を失うというのは、千秋らしいと大地は思う。
大切で大切で。…だから踏み込まない。ずっと傍にいる。
「…わかった」
その真摯な思いに、ごちゃごちゃと言い訳を付け加えて答えたくはなかった。だから、大
地は短い答えで千秋の思いに答えた。その答えに千秋も満足したようで、ゆるり、余裕を
見せて笑う。
…そのとき、ちりんちりんと扉の鈴が鳴った。奇妙な予感にはっとして大地は入口を振り
返り、千秋も顔を上げて見やる。
果たして、そこに蓬生が立っていた。…律を伴って。
「…やっぱりおった」
すたすたと中に入ってきて、当たり前のように千秋の隣に腰を下ろす。その後ろに着いて
きた律も、またごく自然に大地の隣に腰を下ろして。ブレンドをあと二つ、と蓬生が注文
して、けんかしなかったか、と、律は大地を見て真顔で言う。
「…律。だから、相手が東金ならけんかしないから、俺は」
「誰やったらけんかするん?」
「すぐ人の揚げ足を取ろうとするどこかの誰かとならね」
角突き合いかけた蓬生と大地を、のんびりと千秋が遮った。
「どうでもいいが、よく場所がわかったな」
「わかるわ、そら。…この辺で千秋が好きなコーヒーの店ってここしかないやんか」
蓬生は憎々しく言い返しているようだが、その瞳に浮かぶのは自負だった。……自負。…
いや、相手のことなら何でも知っているという喜び。
大地はふと律を顧みた。目が合うと、彼はふっと笑いかけてくれた。どこかなだめるよう
に、勇気づけるように。
傍らに律。目の前に千秋。…はすに蓬生。
まるで今の自分たちをそのまま表しているような位置だと、大地は笑い出したくなった。
今だけでなく、これから。これからずっと、自分たちはこんな位置で生きていくのかもし
れない。尊敬し慈しんで、競い合い認め合って、…すがり愛おしんで。
少し冷めたコーヒーを口に運びながら、大地は静かに笑った。