誰にも言わないで 「あれ、ひなちゃん?」 呼びかけに、かなでは慌てて振り返った。 名字の一部を取ったこの愛称は地元にいたときからのものだが、星奏に転校してきてから 日が浅い上に、すぐに夏休みに入ってしまったので、こちらでかなでをその呼び方で呼ぶ 者は余りいない。そもそも幼なじみの如月兄弟からして、兄の律は昔からかなでをきまじ めに名字で呼ぶし、弟の響也は名前で呼ぶ。 だが彼は違った。ほぼ初対面の頃からかなでをひなちゃんとよび、照れもせずにかわいい かわいいと言ってのけ、しかもそれが気障にも嫌味にもならない。…才能だなあ、としみ じみかなでは思ったりする。後輩のハルなどは、不謹慎です不真面目ですと、常にかみつ いているようだが。 「大地先輩。…お買い物ですか?」 「うん。弦の予備を仕入れておこうと思ってね。この夏はまだスパルタ猛特訓が続きそう だから」 大地のウインクにかなでは笑う。 腕の古傷を悪化させてセミファイナルは欠場する律だが、厳しい指導者としてはアンサン ブルに健在だ。地方大会の練習の時の勢いでやり直し攻撃を食らったら、きっと弦の傷み も早いだろう。 「ひなちゃんは楽譜を見てるのかい?セミファイナルの曲をまだ決めかねているのかな」 問われて、かなでは慌てて首を横に振った。セミファイナルの曲は二曲とも既にメンバー に提示済みだ。自分はもちろん、他のみんなも練習を始めているだろうし、今更変えるつ もりはない。ただ。 「参考に見ておこうと思って。…部室にある楽譜とは少しラインナップが違いますし、… セミファイナルの次にはファイナルがあるから」 大地は軽く眉を上げ、…ふわりと笑った。 「…頼もしいね」 ぽんと背中を叩かれる。かなでは静かに微笑み返した。大地の声に少し冷めた色があるこ とには、気付かないふりをする。 「どれ。…どんな曲があるか、俺も見ていこうかな。…それはなんだい?」 大地はかなでが持つ楽譜に目を止め、おや、とつぶやいた。少し意外そうだ。 「スカボロー・フェアか。…こんな曲の弦楽四重奏アレンジがあるとは知らなかったな」 「知ってる曲ですか?」 「もちろん。…あれ?ひなちゃんは知らないかい?」 「ええ、…名前を聞いたことがない曲だなと思って、今ちょっと譜を読んでたところなん です」 伝承歌曲とだけ書かれていて、作曲家の名前もないですしと付け加えると、大地は少し苦 笑したようだ。 「ひなちゃんはきっと、クラシックにまみれて育ったんだろうなあ」 「そ、…んなことは」 ……ないと言い切れない。別にヴァイオリン曲以外を避けているわけではないが、学校が 終わったら毎日ヴァイオリンに触れる生活だったし、祖父の仕事上、テレビやラジオが付 けっぱなしになっているような家庭ではなかった。 「この曲は、英国伝承歌謡と書かれているけど、むしろポピュラー音楽としてアレンジさ れた曲の方が今では有名なんじゃないかな。俺もギターで弾いたことがあるよ」 「大地先輩、ギターを弾くんですか?」 かなでが少し首をかしげながら聞くと、あれ、言ってなかったっけ、と大地は逆に驚いた 顔をした。 「高校でオケ部にはいるまではずっとギターを弾いてたよ。だから両親も、俺が星奏に入 学してオケ部に入って、おまけにヴィオラを買いたいと言い出したときは驚いていた。て っきり、音楽をやるにしてもギターを続けるんだろうと思っていたみたいでね。…俺も結 構凝り性だから、ずっとのめりこんでギターをやってて、いいギターも買ってもらってた し」 今はちょっとほこりをかぶっちゃってるんだよなあ。また弾いてやらないと。 最後の方の言葉は一人言のようだった。優しい眼差しは、ここにはない大地のギターに向 けられたものなのだろう。 ふと、かなでの中に疑問がわいた。 …そんなに大切にしていたギターを置き去りにして、なぜ大地はオケ部に入り、ヴィオラ を手にしたのか、ということではない。 その疑問に対する答えは、かなではもう知っている気がする。 それよりも今、大地に聞きたいことはもっと別のことだ。 ……だが、聞いてもいいものだろうか。 内心の逡巡は、驚くほどたやすく表情にあらわれてしまったらしい。かなでを見下ろした 大地が苦笑して、少し身をかがめて顔をのぞき込んできた。 「何か聞きたいことがあるんだろう、ひなちゃん」 「…はい」 ばれているんだから、隠しても仕方がない。かなではまっすぐ大地を見て聞いてみた。 「…大地先輩が、受験があるのにヴィオラも副部長もやめないのは、律くんのためです か?」 「…ストレートに聞くなあ」 少し目を丸くした大地だが、にこりと笑った彼の答えも、 「そうだよ」 かなりストレートだ…。 かなでは少し苦笑しながら、…少し迷いながら、次の問いを口にした。 「…律くんのために、自分以外のヴィオラの方がいいと思ったことはありますか?」 …微笑んでいた大地がふと真顔になった。 「…君は、どう思う」 かなでを責めるでも、ましてや卑屈になるでもなく、ごく真剣に、事実の真否をかなでに 問う顔だ。 かなではその大地の目をまっすぐに見て、ゆっくりと首を横に振った。 音を合わせていればわかる。かつての、技巧に特化した律のヴァイオリンだったらどうだ ったかはわからない。だが、今の律のヴァイオリンには、大地のヴィオラがもっとも上手 く暖かく寄り添っていると思う。大地のヴィオラの響きの上で踊る律のヴァイオリンには、 技術を超えた何かがのっているように思うのだ。 「…君がそう言ってくれるのはうれしいよ。君が音に関して嘘をつかない子だと、俺は知 っているから」 大地は薄く笑った。 「君と律は、兄弟でもないのに不思議なところが似ているな。音に対しては本当にまっす ぐで、嘘をつかない」 …そう、律もそうだ。音楽に対して真摯で嘘はつかず、お為ごかしは言わない。妥協もし ない。 そう考えて、かなでははっとする。 「俺が自信を失わずにいられるのは、たぶんそこなんだと思う。あの律なら、自分のアン サンブルに俺のヴィオラじゃ駄目だと思ったら、きっと正直に言うだろう。俺が親友でも、 音には関係ないからね。……でも言わない。…だから俺は、律のヴァイオリンには俺のヴ ィオラでいいんだと思ってる」 全国を見ていれば、自分の技術がまだまだ足りないことくらい身に染みてわかる。どれだ け練習しても、一年二年のの経験が、幼い頃から積み重ねた経験にかなうわけはない。 「…もっともそういう意味では、ヴィオラはヴァイオリンやなんかとちがって比較的他の 楽器からの転向組が多いから、さほどのロスではないんだろうけどね。…それでもさ」 足りないことは確かだ。…だが律が。 「俺でいい、と言ってくれるわけじゃない。だが、俺では駄目だと言われたこともない」 もし駄目なら、律はきっと言う。それが信じられるから、俺は彼の傍で弾き続けていられ る。 「それがあと少しならなおのこと、…岩にしがみついてでも、俺は弾き続ける」 だから。 強い瞳がかなでを射るように見た。 「…俺も聞きたい。…俺は、君を信じていいんだね?」 ……! セミファイナルではかなでを1stヴァイオリンに据えると律が決めた。大地は全国レベ ルの1stヴァイオリンの音を何度も聞いている。だから、彼自身には、かなでが1st ヴァイオリンをつとめられるとは思えない。……だが、律はそれを信じている。 「…律が、情や何かだけで君を1stに据えるとは思わない。だから、君にはきっと何か があるんだろう。…だが俺は、セミファイナルで終わりたくない。なんとしてももう一度、 律を決勝の舞台に立たせて、…そして、トロフィーを勝ち取らせたい」 君の力でそれが出来ると、…俺は信じていいんだね。 まっすぐな視線。強い気持ち。痛いほどにこもる熱。退かずに受け止めて、かなでは笑う。 「はい。……だから、助けてください」 大地のヴィオラが律のヴァイオリンのためにある音だとわかっている。だが、せめてこの セミファイナルだけは、自分を支える音であってほしい。 この想いが一方通行でも。…せめて今だけ。 大地は今日初めて、やや虚を突かれた顔になった。かすかに眉が寄り、そつのない笑顔に 一瞬の痛みが走る。…もちろんそれはほんの一瞬だけで、すぐに、いつものおおらかで穏 やかな彼の笑顔が戻ったけれど。 「…ああ。……もちろん」 それでも、…優しく労るその声には、いつになくせつない色がある。 「ありがとうございます。…がんばります」 あなたが彼のためにそうするように、私もあなたのためにそうしたい。 決して口にはしないその思いを、かなでは微笑みの中にそっと隠した。