伝言

忍人が堅庭で剣の手入れをしていると、入り口を開けて遠夜が入ってくるのが目に入った。
おそるおそる、という様子で辺りを見回し、堅庭の縁に腰掛けている忍人を目にとめると、
ほっとしたような、しかしぎょっとしたようにも見える様子で、おずおずと近づいてくる。
「………」
唇がかすかに動いている。何かを彼が話しているのだろうが、忍人には聞き取れない。い
や、忍人だけではない。彼の言葉は二ノ姫にしか届かないようなのだ。
指先が、手に持った貝殻の入れ物を指し示す。すくって、手に塗りつける動作。以前、血
止めにきく薬が何かないかと二ノ姫を通じて頼んでいたことを忍人は思い出した。
「血止めの薬か?」
こちらからそう問いかけると、ほっとしたようにこくこくうなずいた。
「手間を取らせてすまなかった。ありがとう」
そういうと、今度は首をぶんぶんと横に振る。
差し出された薬を、忍人が受け取ろうと手を伸ばす。その目測を少し誤って、忍人の手が
遠夜の手に触れた。
「……!」
びくっと、遠夜が肩をふるわせたはずみで、薬の入れ物が地面に落ちた。
かしゃん、という音がして、ふたがとれ、軟膏が地面にべっとりとつく。
「…………!!」
あわてふためく様子を見れば、身振り手振りを見なくても彼が言いたいことはわかる。ご
めんなさい、ごめんなさい、と必死に謝っているのだ。
忍人は無言で貝殻の入れ物を拾い上げた。遠夜が必死に取り返そうとしてくる。取り替え
る、というそぶりでいる。もう一度新しいものを作ってきてくれるというのだろう。忍人
は首を一回きっぱりと横に振った。
「……」
しょんぼり肩を落とした遠夜に、忍人はかすかなため息混じりに理路整然と言って聞かせ
た。
「表面をきれいな布でぬぐえば使える。新しいものと取り替えるなんて、もったいないこ
とをしなくてもいい。俺が受け取り損ねたのが悪かった。そんなにびくびくするな」
……いや、と忍人は思う。
軟膏を落としてしまったことだけを、彼がこんなにびくびくしているわけではないだろう。
忍人は、初対面の時から土蜘蛛は信用できないと断言している。だから遠夜は忍人に対し
ていつもびくびくしているのだ。
「遠夜。俺は確かに土蜘蛛が嫌いだ」
また遠夜がびくりと肩をふるわせた。そしてしょんぼりと背を向ける。
「まて。続きがあるんだ。…確かに土蜘蛛は嫌いだが、俺が土蜘蛛を嫌いだからといって、
お前がびくびくすることはない」
「……」
振り返った遠夜は、明らかに意味がわからない、という顔をしている。どういえばいいか、
と忍人も言葉を探した。
「…なんと言えばいいのか…。…お前は、土蜘蛛に生まれたくて生まれてきたわけじゃな
いだろう?お前が土蜘蛛なのは、お前の責任じゃない。俺がお前を土蜘蛛だから嫌いだと
いうのは、お前にとっては理不尽なことなんだ。だから、むしろお前は、俺に対して怒っ
ていい」
遠夜は忍人の言葉の最後を聞いて、びっくりした顔をして首をぶんぶん横に振った。…ま
あ、そうだろうな、と忍人も思う。彼が誰かに怒りを向けるとすれば、それは二ノ姫に危
害を加えられたときくらいだろう。…いや、二ノ姫に危害を加えられたとしても、怒りを
覚えることはないかもしれない。たんたんと、まるで日々の食事を取るかのような態度で
ただその相手を滅するだけなのではないか。そんな気がする。
「まあ、怒れというのは言い過ぎかもしれないが、…とにかく、おずおずもびくびくもし
なくていい。…それに俺は、…お前のことは、今はもう嫌っていない」
面と向かっていうのは照れるので、忍人はふいとそっぽを向いた。視界の隅で、遠夜がぽ
かんと口を開けるのがわかった。その表情が、まるで花が開くようにはなやぎ、彼は微笑
む。ややあって、彼は必死に口をぱくぱくし始めた。忍人は、首を振ってもういいから、
と本格的に背を向け、剣の手入れを再開した。

「忍人さん」
翌日、忍人は千尋に呼び止められた。
「二ノ姫。…何か?」
「ありがとうって。…伝えてほしいって言ってました。遠夜が」
……あのぱくぱくしている口はそれだったのか。
「…わざわざ君に伝言とは。律儀なことだな」
「どうしても伝えたいのに、伝わらなかった気がするって、必死でしたよ。…何があった
んですか?」
「いや、特には何も」
「えー」
千尋は不満そうに声を上げた。
「どうして二人とも内緒なんですか?」
「は?」
「遠夜が、どうしても忍人さんにありがとうって言ってほしいっていうから、何があった
のって聞いたら、秘密、って言ってにこにこしているんです。だから、絶対忍人さんに何
があったのか聞こうと思ったのに、忍人さんは別に何もないって。…どういうことです
か?」
忍人は苦笑した。
「あ、笑ってるー。忍人さんが笑ってる。ますます気になる」
「君が気にすることではないだろう」
ぴしりというと、千尋がしょげかえった。
…しまった。
忍人は少し首をすくめる。
自分の物言いが基本的に厳しいことを忘れていた。
やむなく、忍人は少し言葉を付け加えた。
「…昨日、遠夜が血止めの軟膏を持ってきてくれたときに少し話をしたんだ。そのときの
ことだろうとは思うが、礼を言われるようなことを言った覚えはないので、よくわからな
い。遠夜に聞いてくれ」
…本当は、わかっている。だが、それを面と向かって千尋に言うのは照れくさくてとても
できない。
千尋は苦し紛れの忍人の説明に、それでも納得したらしい。
「忍人さんて、天然ですものね」
と言った。
「…は?」
テンネンとはどういう意味だ?
「忍人さんて普段厳しいけど、時々ぽつんとうれしいことを言ってくれるでしょう」
……?
忍人が首をひねると、ああやっぱり、と千尋は笑った。
「やっぱり自覚ないんだ。でも、言われた方はとてもうれしいんです。きっと遠夜もそう
いうことがあったんだと思う」
いいな、とつぶやいて、彼女はふわりと身を返した。
「伝言、伝えましたから。じゃあ」
置き去りにされたかっこうになった忍人は、少し頬をこすった。通りすがりの風早が、顔
が赤いですよ、とからかう声を残していった。