エイカ

行軍の時、忍人は基本的にしんがりを務めることにしている。前方は布都彦に任せられる
し、背後から襲われたときに敵を一掃するには自分の破魂刀の力と狗奴の兵の力が有効だ
からだ。
中つ国の軍に参加したアシュヴィンは、自らの兵を連れているときには、先触れを務めて
くれることもあるが、基本的には戦の時以外は兵を動かさない。大概はリブと二人で、柊
や風早、道臣と、何かしら相談しながら歩いていることが多い。
だが、熊野の磐座で玄武の加護を受けた帰り道、突然前方にアシュヴィンが現れた。現れ
たというか、歩く足を止めて忍人を待っていた様子だ。リブはいない。そのまま先に行か
せたのだろう。
「少しいいか」
珍しいことではあるが、会話を拒絶する気も別にない。忍人は目を上げ、肩をすくめて、
アシュヴィンが横に並んで歩きやすいように歩調を調整した。…もともと身長や歩く速さ
に差がある二人ではないので、ほどなく歩調を合わせて無理なく歩けるようになった。
「…俺に何か」
「ああ…うん」
どこから話したものかな。そう言いたげにアシュヴィンは歩きながら腕を組んだ。
「…サティの土蜘蛛には、何か怨恨があるのか?」
「……」
「…ああ、この言い方ではわかりづらいか。…さっき、磐座で会った土蜘蛛のことだ。エ
イカという名だそうだが、俺はあまり親しくないのでな。名は初めて知った。いつも、サ
ティの土蜘蛛、で話が通じたものだから」
俺のリブと同じだ。基本的にはサティの後ろにずっとぴったりいる。あれがサティから離
れるのはサティに何か命令されたときだけだ。
そう付け加えて、アシュヴィンは視線だけで忍人の表情をうかがい、ふ、と笑う。
「…なにか、あるんだろう。…そういう顔をしている」
「…昔の話だ」
「言いたくないか?」
「……」
アシュヴィンが話しかけてきている意図がまだつかめないが、このままではいつまでも会
話がどうどうめぐりをしそうで、やむなく忍人は口を開いた。
「以前、中つ国の軍に巫医として所属していた。…そして裏切られた。…それだけだ」
「なるほど。…だが、俺に言わせれば、それは裏切りとはいわん」
「……!?」
「あれは、サティの土蜘蛛だ。常世に生きるものだ。…それを信じてお前の軍に入れたの
が誰かは知らないが、その時点でだまされているのさ。裏切られたのではなく、だまされ
ただけだ。…あの軍師と、レヴァンタとの関係と同じだ。レヴァンタも、柊に裏切られた
と思っているかもしれん。だが、柊は裏切ったわけじゃないのだろう?…あれは昔からず
っと、二ノ姫のためにだけ戦っていた。レヴァンタはだまされていたんだ」
「……!」
忍人はぐっと唇をかんだ。…が、目を閉じて、冷静さを取り戻す。
「詭弁だ」
「そうだな、詭弁だ」
あっさりとアシュヴィンは認めた。
「だが、傍らから見れば、それが事実だ」
「………」
忍人は、感情を殺して前を向いたまま歩き続ける。アシュヴィンはその足取りに歩調を合
わせてついてくる。
「…勘違いするなよ」
「…?」
「エイカを許せという話をしたいんじゃない。俺には別に、あいつをかばってやる義理も
何もないからな。…俺はむしろ、お前のために言っているんだ。…お前と、…そうだな、
二ノ姫のために」
「………」
アシュヴィンは、手袋をはめた手で、唇のあたりをもてあそんでいる。
「エイカが許せないというのはわかる。俺の言い方は確かに詭弁で、お前から見れば、エ
イカのしたことは裏切り行為なのだろう。…だが、これからお前が二ノ姫を支えて国を立
て直していくのなら、その過程で、エイカのした裏切り程度ではない、もっと手ひどい裏
切り行為に何度もあうだろう」
静かな声だった。感情の入る余地のない、まるで教師のような声だ。
「そのたびに、怒りをためてつのらせていたのでは、お前自身の身が持たない。体より先
に心がつぶれるだろう。裏切りはなるべくうまくかわして、もし裏切り行為にあってしま
ったらさっさと忘れることだ。これは裏切りではなかった、と詭弁を弄してもいい。…そ
うやって、お前の心を休めていたわってやれ」
アシュヴィンは、常世の国の皇の息子だ。……遠夜に聞いた話では、子供の頃から何度も
殺されかけたり危険な目にあったりしてきたという。彼が今忍人に話してくれているのは、
そんな毎日の中から彼が得た処世訓なのだろう。右から左へ聞き流していい話ではない、
とは思う。
…だが、なぜ自分にそんな話を、とも思う。
忍人の心の中のそんな疑問が、伝わったわけでもないだろうが、アシュヴィンはこう話を
続けた。
「お前がつぶれたら、あの二ノ姫のことだ。きっとお前のために心を痛めるだろう。さっ
きも、彼女はお前のエイカへの眼差しに気づいていた。…お前はエイカへの怒りでいっぱ
いになっていて気づかなかったろうが、あの蒼い瞳を曇らせて、心配そうにお前をずっと
うかがっていた。…お前のエイカへの感情が尋常のものでないと感じ取っただろうさ」
忍人は肩をこわばらせた。
…気づかれていたのか。
あの場では無我夢中で、周りのことに注意を向ける余裕などなかった。だが、柊や風早に
何かを悟られることはあっても、二ノ姫に気づかれているとは思い及ばなかった。
「……」
ずっと忍人を見ないようにして話していたアシュヴィンが、そこでようやく忍人に視線を
向けた。からかうような笑みとともに。
「二ノ姫の心を痛めるのは、臣下としてのお前の本意じゃなかろう?」
「…………無論」
「ならば、俺の忠告を受け入れることだな。…俺がこんなに親切にしてやることなどめっ
たにない。ありがたがってほしいものだ」
「…ああ。…感謝しているさ。…二ノ姫のことを、教えてくれた」
「なんならついでに裏切り行為の見抜き方について指南してやってもかまわないぜ。なに
しろ常世の国の歴史は謀略の歴史だ。中つ国の母系社会と違って、常世の国は皇の血統が
子だくさんでな。俺には異母兄弟が山ほどいる。少しでも出来がよければ、それをねたむ
奴にけ落とされる運命だ。子供の頃から、謀略だの裏切り行為だのには事欠かん」
「苦労が多いな」
「慣れれば楽しいぞ。……たとえば、…そうだな」
アシュヴィンは右手の指を二本立てて見せた。
「人が二種類に分けられるとする。…一つは、お前の敵だ。…もう一つはなんだと思う?」
「何って……味方だろう?」
忍人が眉を上げると
「俺はそう考えないな。一つが俺の敵、もう一つは俺の敵でない人間だ」
………。
「…味方、というのと、敵でないというのはちがうのか?」
「ちがうさ。今俺の敵でない人間は、俺の味方かもしれないし、今のところは何もしてこ
ない奴かもしれない。あるいは、いつかは俺の敵に寝返るかもしれない」
本当に信じられる一握りの人間以外は、全部疑ってかかる。
「いやな人間と思われようと、俺はそうやって生きてきた。そうやって生きていく中で、
敵の中からも味方を見つけてきた。…そいつは、俺が絶対に信じられる、数少ない人間の
一人になってくれた」
「……」
「お前の主君ならおそらくこう答えるだろう。この世にいるのは、自分の味方か、自分の
味方でない人間かだと。彼女は、たとえ敵対していても、もしかしたら戦わずにすむ道が
あるのではないかと常に考えている。今味方でない人間は、敵かもしれないが、単に中立
を保っているだけかもしれないし、仮に敵であったとしてもいつか味方になってくれるか
もしれないと考えている。そしてそういうやつらを彼女は全て受け入れる」
「………」
アシュヴィンの言うことは、的を得ている。確かに二ノ姫には、そういう度量がある。
「それが彼女の君主としてのやり方なんだ。俺のやり方と、どちらがどうとはいわん。た
だ一つ言えることは、国という大きなものの中では、お前のように全てが敵か味方かで割
り切れるという考え方ではやっていけないということさ」
そこでアシュヴィンはぽんと忍人の肩をたたいた。
「二ノ姫が国を取り戻すまで、まだしばらくの時間がかかるだろう。……ゆっくり考える
ことだ。……二ノ姫を、本気で支えようと思うなら」
ではな。
そう言い残して、アシュヴィンは足を速めた。行軍は二ノ姫の歩く速さに合わせているの
で比較的ゆったりと進んでいる。彼は体格のいい狗奴の兵たちの間を抜け、やがて曲がり
くねっている道の向こうに姿を隠した。
………。この世にいるのは、自分の味方か、味方でない人間か。
エイカはずっと、常世の国に仕える土蜘蛛だった。俺は味方の裏切りにあったわけではな
く、味方でない人間にだまされていた。
言葉を言い換えただけなのに、なぜか、肩に入った力がすっと抜ける気がした。
エイカへの怒りが収まったわけではない。だが、思い詰めていた心のしこりが、ほんのわ
ずかゆるんだように思う。
……自分を楽にしてやる、自分の心をいたわるというのは、こういうことか。
なるほど、ずっと裏切りの中にいるアシュヴィンらしい処世術だ。
そして、アシュヴィンにこんな彼らしくないお節介をさせる、二ノ姫を思う。
……誰もが彼女には、何かしら手を貸さねばならないという気にさせる。…敵であったア
シュヴィンも。異種族である日向のサザキや、土蜘蛛の遠夜も。
……そうだ。二ノ姫は、その血筋に生まれたが故に国を背負わされた、たよりないひとか
けらの希望ではない。真の君主としての器を持った、大きな希望。
彼女の作る国のために、自分は戦いたい。彼女のために、自分ができることをしたい。君
主に心配をかけるなど、臣下としてあるべき立場ではない。
「…二ノ姫を見かけたら、心配をかけたことを謝るかな」
忍人はぽつりと呟いた。…そうだ、そうしよう。
行軍の早さが少し上がる。向こうに神邑が見えてきたためだろう。忍人は背後に注意を払
いつつ、足を速めた。