エチュード・卒業


「……律!…ごめん、待ったかい?」
足早に、というよりはほとんど駆け足の体で、大地が部室に飛び込んできた。腕には黒い
筒と豪華な花束、それにたくさんの荷物を抱えている。
部室の椅子に座って、何か紙のようなものに目を落としていた律は、顔を上げて穏やかに
微笑んだ。
「たいして待ってはいない。むしろ、想像していたより来るのが早くて驚いたくらいだ。
普通科からここまで、結構あるだろう?」
「いや、卒業式後のHRは結構早くすんだんだよ、俺のクラスは。……職員室でちょっと、
押し問答していたら遅くなって」
「…?…押し問答?」
「そう。…これ」
大地は花束の下に隠れてしまっていたヴィオラケースを見えるように持ち上げてみせた。
…律は軽く目を瞠る。
「持ってきていたのか、…今日」
「ああ。…これは顧問の先生からの借り物だからね。……体調を崩されてずっとお休みさ
れていたけれど、この卒業式には出席されるということだったから、なんとか今日返さな
くちゃと思って。……でも」
「もう少し持っていていいですよ。…そう、言われたんだろう?」
大地が言いかけた言葉を先回りするようにつぶやいて、律は眼鏡のブリッジを指で押し上
げた。
今度目を瞠ったのは大地だ。唇を突き出すような、「え?」という顔になる。
「…どうして」
「どうしてって」
律はむしろ大地のその問いに驚いたようで、瞳をすがめるようにして苦笑する。
「今、大地がそのケースを持っているということは、そういうことなんだろう?」
「……あ」
はた、と大地は我に返った顔になった。
「…あ。…あー、確かに。…うん。そうだよな」
笑っていた律がふと笑い収めた。
「…先生は恐らく、もう少しそのヴィオラに、生きていてほしいんだ」
「……生きて?」
「そう。…先生の手元に置くよりも、今しばらくはお前の手にあった方が、そのヴィオラ
は演奏される可能性が多くなる。……お前が、医者の勉強で手が回らなくなるまでは」
「……」
「静かにケースの中で眠るよりも、時折でも奏で続けられることが楽器の幸せだ。……本
当に弾く時間がなくなれば、お前はそのヴィオラを返せばいい」
「……」
大地は、ふう、と息を吐いて、それから笑った。
「……まるっきり、先生と同じことを言うんだな」
「はは」
律は小さく笑った。
「俺も先生も、楽器の味方だから」
「…なるほど」
「それに、ちょうどよかった」
「……え?ちょうどいい?……何?」
大地が聞き返すと、律は珍しく、一瞬何かをためらう顔になった。
「……」
が、そのまま目を伏せ、そっと、さっき視線を落としていた紙を大地に差し出してくる。
「…これを」
「…え?」
受け取り、開いて、大地は首をかしげた。
「何だい?楽譜?…手書きだね」
「ああ。…俺が書いた」
いつもはっきりと話す律には珍しく、ぼそぼそとした声だった。大地ははた、と一度まば
たく。
「…音楽科の作曲の授業では、三年の三学期に、卒業制作として自分のオリジナル曲を一
曲作曲して提出することになっている。それが最後の定期試験なんだ。…そのために書い
た楽譜なんだが」
律はまた、眼鏡のブリッジに触れた。
「…よければ、もらってくれないか」
「………。…え」
…俺はさっきから、え、って言ってばかりだな、と自分でも自分につっこみつつ、大地は
やはり、え、と言った。律も、また眼鏡を押し上げた。
「…ヴィオラのソロ曲だ。ヴァイオリンにしなかったのかと先生には驚かれたが、ヴィオ
ラで作曲したかった。大地のヴィオラの音をイメージして書いてみたんだ」
「……」
「正直言って、作曲は余り得意ではないが、これはまずまずの出来だと思う。…受け取っ
てくれるだけでいい。…頼む」
「……」
大地は手を伸ばし、譜面を受け取る寸前で手を止めた。
「俺がずっと持っていていい。…そういうことかい?」
「…ああ。…迷惑でなければ」
いつになく、どこかおずおずと自信なげな風情の律に、大地は唇を引いて、にっこりと笑
いかけた。
「…迷惑だなんてとんでもない。むしろ光栄だよ。…ありがとう」
言いながら、はらりと五線紙をくる。入ってくるなり話し始めてしまって置くタイミング
を逃し、腕に抱えたままになっていた花束が、大地の体温に暖められてほんのりと甘い春
の香りを漂わせる。
「…ヴィオラのための、エチュード(練習曲)」
しばらくして、大地が読み上げたのは曲のタイトルだ。
律はゆっくりと首をすくめた。
「先生は、エチュードと名付けるならもう少し技巧に凝った作りでもいいと仰ったんだが、
…俺は、繰り返し弾くときに、飽きずに心地よく弾いてほしかった。…だから、あまり技
巧的ではなくて、どちらかというと叙情的で……。……大地?」
大地?とけげんそうに律が呼びかけたのは、話の途中で大地がくっくっと喉を鳴らし始め
たからだ。
「…どうかしたか」
「律は大嘘つきだ」
「……は?」
わざとらしく、まるで笑いすぎて涙が出たとでも言いたげに、目尻を指でぬぐう真似をし
てみせながら、大地は律の鼻先を行儀悪く指さした。
「受け取るだけでいい、…なんて、大嘘じゃないか。……本当は、俺がくりかえしこの曲
を弾くように、…そう願っているんだろう?」
「……」
律は眼鏡の奥の瞳を照れたようにすがめた。
「……ああ、そうだな、……大地の言うとおりだ……」
く、と自分でもおかしくなったのか、喉を鳴らす。
「確かに大嘘つきだな、俺は」
「弾いてみたいな。…だけど、初見じゃちょっと自信がない。……よかったら、一度律が
弾いてみせてくれないか?」
何気ない風を装ってねだる大地と、その大地の思惑を推し量るような律の眼差しが、一瞬
ひたりと合った。
「…お前のヴィオラを借りていいなら」
「もちろん」
「…」
うなずいて椅子から立ち上がり、律は大地のヴィオラケースに手をかけた。ケースを開き、
取り出し、…その側板を愛おしそうにそっと撫でてから、あご当てにあごを載せる。
すらりと伸びた演奏姿勢に大地が見とれていると、…ふと律がつぶやいた。
「…大地みたいだ」
「…え?」
「……このヴィオラに触れるのは、大地の肌に触れているような心地がする」
「……っ!」
さらりとしたつぶやきは、本人は無自覚なのだろうが、大地の心臓を直撃した。
「…そ、ういう爆弾は、勘弁してくれよ、律…」
「……?爆弾??」
律はきょとんと目を見開く。その素直な眼差しに、それ以上は何も言い得ず、大地は口元
を押さえて何とか平静を装った。
「…いや、何でもない。…何でもないよ。」
「……」
律はその大地の言葉にあっさりと納得したようだ。気にしていない、と言うかのように静
かに笑いかけ、……それからそっと、弦に弓を滑らせた。
甘く優しいそのメロディは、なるほど、技巧的にはさほどハイレベルではなく、エチュー
ドというよりはロマンスとでも名付けた方が良さそうなやわらかさと美しさだ。
本当に、自分を思ってこの曲を書いてくれたのだとしたら、これは結構な愛の告白じゃな
いだろうか、と、じわじわと耳から顔が熱くなっていくのを感じながら、大地はそっと目
を閉じた。