Fly me to the moon 助手席で大地が鼻歌を歌っている。ジャズでよく聞く甘いメロディ。Fly me to the moon だ。 他意のない選曲だろう。五月の日は長いが、七時前ともなればさすがに東の空は夕闇に青 く、月の出の気配でほんのり淡く輝いている。月の歌の一つも歌いたくなるだろう。 だが、車を走らせる蓬生は、かすかにちりりと胸が灼ける気がした。 大地、と、月。…結びつけるたび脳裏に浮かぶのは、涼しげな眼差しをした一人の青年だ からだ。 「……」 だから蓬生は、心にもない言いがかりを一つ付けてみた。 「ヘタクソ」 「……ん?」 大地はぼんやりしていたようだ。窓外に流していた視線をふと蓬生に向けてくる。 「何?」 「ヘタクソ、言うたんや。…君の鼻歌」 「…。そりゃ、失礼」 蓬生のとげとげした言い方に、大地は一瞬呆気にとられた顔になったが、すぐににこりと 笑ってこう返した。 「じゃあ蓬生が歌ってくれないかな」 「……はあ?」 「蓬生の歌ならどんなにヘタクソでも俺はおとなしく聞いているよ。…君の声が大好きだ からね」 さらっとこういうことを言って嫌味になるのが(嫌味にならない、ではない)大地の大地 たる所以というかなんというか。 「…運転しながら歌えるわけないやろ。気ぃ散る」 苦虫を噛みつぶしながら蓬生が毒づくと、 「じゃあ運転替わるよ」 ときたものだ。 「免許、俺も取ったよ。知ってるよね?地元ではよく乗ってるから大丈夫」 「山に登ろうとしてるんやで?…道に慣れてへん君の運転では危のうて乗ってられんわ」 「平気だよ、止めて」 「……」 「……止めて?」 にこりと首をかしげて笑う気配。 「……」 蓬生は結局、促されるままに、展望のためドライブウェイの途中に設けられた駐車スペー スに車を入れた。ブレーキを踏んでイグニッションバーに手を置くと、その手の上に大地 がそっと手を重ねてきた。 「…何をいらいらしているんだい?」 「別に」 「別に、じゃないよね。…俺が神戸に着いたときはうれしそうにしてくれていた。ランチ も、その後の散策の間も。……たぶん、あの瞬間からだ、君の雰囲気が変わったのは」 「……」 「俺が、月を見に行こうと誘った。…それが気に入らない?」 ……そうだ。いつまでも日が落ちないがそろそろ五時だ、これからどうしよう、どこか食 事に、と話を持ちかけたら、大地がふと、月が綺麗に見えるところに行こうよ、と提案し たのだ。スーパームーン、知ってるかい?月が楕円の軌道を描いている関係で、ほんのわ ずかだけど同じ満月でも時期によって大きさが違って見える。今夜は月が地球に再接近す る日なんだよ、と。 「…君は、月に何を連想するのかな」 「……」 黙りこくる蓬生に、大地は静かに、…ほとりと何かをこぼすようにこうつぶやいた。 「…俺はね、月を見るたびに君を思い出すんだよ」 「……。…俺?」 蓬生はぽかんとした。呆気にとられた拍子に、思わず声が出てしまう。 「何で?」 「…きれいだから。宵闇が似合うから。俺に向ける顔がくるくると変わるから。…優しか ったり、意地悪だったり、暖かかったり、そっけなかったり」 「……」 あのな、と文句を言うべきだ。…言うべきだとわかってはいるのだが、蓬生はらしくもな く、そのとき言葉を失っていた。 「何気なく夜空を仰いで月を見ると、いつも君を思い出してはっとする。だから今夜は君 と月を見に行きたいと思った。月光に照らされている君を、この目に焼きつけておけるよ うにね」 「……」 「…教えてほしいな。…君が月に何を連想するのか」 「……」 蓬生は軽く唇を噛んで、ふいと顔を背けた。 「…答えてくれない、か」 大地は苦笑したようだ。 「俺には言いにくい?…ってことはきっと、東金なんだろうね」 「…っ、は?」 その思いがけない言葉に蓬生ははからずもまた声を上げてしまい、あまつさえ大地を振り 返ってしまった。 「ちょお待って。千秋?何で?」 「…え?…ちがうのかい?」 蓬生の驚きぶりに、大地も驚いている。 「当たり前やん。…何で千秋が月なん。似合わへん」 「いや、君がずいぶん言いにくそうにしているし、東金の存在は君にとって導きの光に等 しいだろうから。…そうなんじゃないかと」 「…。それは、…そう、やけど」 確かに大地の言うとおり、千秋は蓬生にとって導きの光だ。彼がいたからこそ、自分は今 こうしてここにいるのだ、と思う。……だが。 「千秋はお日さんの光や。月の光よりももっとまぶしい、もっと力強い何かで」 「ああ、確かに」 大地はうなずくと、 「じゃあ月は?」 もう一度そう問うた。 「……」 答えず、蓬生は小さく歌を口ずさんだ。 −Fly me to the moon. 大地は眉を寄せる。 「蓬生」 「…歌え、言うたんは君や」 「それは………まあ、そう、だな」 蓬生は低く歌い続ける。きらびやかに飾った言葉で相手に思いを伝えようとして、でも結 局。 −in other words, 直球を投げる。つまり、その、つまるところ、私は。あなたを。 「…蓬生」 大地が静かに促す。元々歌い始めたのは彼だ。この先の歌詞も当然知っているはずだ。な らばこんなまどろっこしいことをする必要は何もない。…何も。 蓬生は運転席から身を乗り出し、ゆるりと大地のうなじにその腕を巻き付けた。 −in other words, I love you!