月没

朝の空気が、なまぬるい、から、すごしやすい、に変わったのはいつ頃だったろう。
気付けばもう、ひやりと冷たく感じる風が吹いている。

忍人は習慣でいつも夜明け前に目が覚める。薄暗い中で身支度をすませ、まだ光は差し染
めていないがほのかに明るい空を見ながら、背筋を伸ばして宮殿の内廊を歩んでいくと、
庭にぽつりとたたずむ人影があった。
足音が聞こえたのか、その金の髪がさらりと揺れ、忍人を振り返る。
「……那岐」
「忍人」
ささやくように呼びかけあったのは、どちらの声が先だったか。
「こんなところで、何を?」
「…月が沈むのを見てたんだ」
指さす先を見ると、畝傍の山の山の端に、いましも望月がその美しく大きな金色の姿を隠
していくところで、忍人は思わず息を呑んだ。
「美しいよね」
声もない忍人の代わりのように、那岐は静かにささやいた。
「日没も美しいけれど、秋の月が沈んでいく光は、本当に美しい」
忍人はうなずきながら、はたと心づく。
…ほぼ満ちている月。
ということは、今日は那岐の生まれた日ではないだろうか。長月の望月の日に生まれたは
ずだ。
傍らにある整った横顔に改めて目を向けて、忍人はまたはっとした。
「……忍人?」
あまりにまじまじと眺めたので、うっとりと月が沈むのを眺めていた那岐が、いぶかしげ
に忍人に向き直った。
「僕の顔に何かついてる?」
真正面から見つめると、なおのことはっきりする。
忍人は静かに微笑んだ。
「…いや。………目線が」
「……目線?」
出会ったとき、那岐は忍人よりも小さかった。さほどの差ではなかったが、目を見て話す
ときはいつも那岐の方が少し上目遣いで、忍人は心持ち目線を下げていた。
それが今はちがう。忍人が那岐の瞳をのぞき込むのに目線を下げる必要はない。ほぼまっ
すぐか、心持ち上げねばならないほど。
「背が伸びたな、那岐」
「……っ」
言われて改めて那岐もその事実に気付いたらしい。まじまじと忍人の瞳を見つめ、ぱたぱ
たと何故か自分の胸の辺りや腕の辺りをさわってみて、呆気にとられた顔をしている。
やがてぽつりと。
「……ほんとだ」
その気の抜けたような言い方がおかしくて、忍人は思わず笑ってしまった。困ったような
顔をしていた那岐も、つられてゆるゆると笑い出す。
笑いながら、那岐はどこかぽかんとした声でつぶやいた。
「……不思議だなあ」
「……何が?」
忍人が笑い収めて目を小さく見開き、静かに問うと、那岐も泣き笑いのようなへの字の口
をして忍人を見た。
「僕はずっと、少しでも早く大人になりたいと思っていた」
開いてまじまじと見つめるその那岐の手も、指はすらりと長く、掌が広い。幼さを抜け出
した、大人の手だ。
「師匠と隠れ暮らしているときも、異世界で千尋達といたときも、とにかく早く大人にな
って、誰にも庇護されずに生きられるように、自分の力だけで誰かを守れるようになりた
かった」
小ささ、幼さと、力のなさに歯がみする毎日。
「身長の話じゃないって頭ではわかっていたけど、毎日背を測ってみたり、がむしゃらに
術の稽古を繰り返したり。……あの頃はもどかしいほど、毎日毎日何一つ変わらないよう
に思ったのに、…気付いたらいつの間にか、少なくとも身体だけは、ちゃんと大きくなっ
てて、…」
那岐はそこで言葉を切った。
中途半端なつぶやきをいぶかしみ、それでも無理に促すことはせずに、忍人は静かに那岐
の横顔を見守る。
「…忍人」
ふっと、思い切ったように、那岐が忍人を見た。
「君にその必要はないと知っているけど、…僕は、…君を守れるようになりたかった」
強く、広く、高く、大きく。力を、腕を、背を、心を。
「だけど、なぜかな。…容れ物ばかり大きくなって、中身はちっとも追いつけない」
すがるような眼差しに、忍人は余裕と笑みを含んだ吐息で応じた。
「…?」
「那岐。…月だって、満ちれば欠ける」
既に沈みきって視界から消えている十四夜の月。今日の夜昇ってくるときは円く充ち満ち
て、そして明日からは少しずつ欠けていく月。
「自分が完璧になったと思ったその瞬間から、少しずつ何かがおろそかになってゆくのが
人という生き物だ。…まだ足りない、と思うくらいがちょうどいい」
忍人は手を伸ばした。那岐の胸で揺れる玉を指に絡め、そっと身をかがめてその一つに口
づけを落とし。
「君が予想するとおり、俺は、君に守ってもらうことは望まない」
びくりと那岐の白い貌が歪む。その唇が開く前に、しかし、と忍人は落ち着いて言葉を続
けた。
「俺の背中を君に預け、君の背中を俺が預かりたいとは願う。……それではいけないか」
一方的に守られるのではなく、守り守られたいと願う。二人がそろうことで、全き円の姿
を描くように。
「…っ」
那岐が鋭く息を呑んだその瞬間、ほの明るかった庭に一筋、金色の光が差し込んだ。振り
返れば東の空にまばゆく広がる一筋の光明。ゆるりと真ん中からふくれ、こぼれだす。
日が昇る。
…そう、あのまばゆい光のように。円く、満ちて。いつも。いつでも。
「どんなときも、君と在りたい」
那岐は何かを飲み下し、佇立瞑目してその言葉を受け、やがてようやく、いつもの皮肉を
浮かべた顔で忍人に笑いかけた。
「…身に余る光栄だよ」
「身に余ると言ってもらっては困る」
忍人はさらりと笑っている。
「俺が背中を預けるのは君一人なのだから」
「わかってる。…謙遜はしない。…慢心もしない」
ありがとう、忍人。
「最高の誕生祝いをもらった。……あえて欲をかくなら、あと一つ」
ねだられるまでもない。忍人は静かに両の腕を広げ、前よりも少し高くなった那岐のうな
じに絡める。

朝の光が金から真白に変わるまで、二人の影は離れなかった。