グロリア


腱鞘炎を発症してから、週一回、大地の自宅である整形外科を受診するのが律の習慣にな
っている。その日もいつも通り予約時間に医院に足を踏み入れると、庭の大きな木にはし
ごをたてかけた上で、大地が何かしていた。
振り仰いで、
「大地」
呼ぶと、
「やあ、律」
明るい声で彼は見下ろしてきた。
「一体何をやっているんだ?枝の剪定か?」
「残念、外れ」
怪訝そうな律に、奇妙なほど朗らかな大地。時期的に、見ればわかるかと思ったんだけど
なあ、ともつぶやくので、
「……???」
律はぽかんとして首をかしげてしまった。
「俺のことはいいから、受付をしておいでよ、律。早く暖かいところに入ってさ。…律が
診察を終えて出てくる頃には、少しは形になってると思うよ」
そう言って、ウィンクされて。…不得要領なまま律は院内に入り、受付をすませ、常のこ
ととてもう慣れたが、予約制の割には少し長く待たされてから、大地の父親の診察を受け
た。
「うん、言いつけを守っているみたいだ。順調だね」
だけどまだしばらくはあまり練習してはいけないよ、いいね、と釘を刺してから、ふと、
「そういえば、大地に会ったかい?」
瞳を悪戯っぽい光できらめかせて、大地の父親は問うてきた。
大地はどちらかというと母親似だと思うのだが、こういう、何か楽しい企みを隠している
ようなときの目は父子でそっくりだな、と律は思う。
「庭で、会いました」
「そうか。…でも、君の反応を見る限り、まだ終わってないんだな。今年はシンプルでと
言っていたから、早く終わるはずなんだが」
……だから何を、と、律が問おうとしたときだった。
窓の外が少し明るくなり、待合室の方で歓声が上がった。診察室に詰めている看護師も少
しそわそわと首を伸ばす。大地の父親は穏やかに笑った。
「完成したかな?…お疲れ様、今日の診察はこれで終わりだよ、如月くん。また来週の予
約を入れておくからね。何度も言うけど、まだ一時間以上の練習は禁止。今日はもう弓を
持たないように。……後、帰りがけに大地をねぎらってやってくれ」
……????。
首をかしげながら診察室を出ると、待合室の窓から外を見て子供達がなにやらわあわあ言
っていた。明るさの正体を確認しようと、子供達の上から首を伸ばしてみて、律は思わず
あっと声を上げる。
庭の芝生の上に、雪のように小さな白いLEDライトがきらめいている。生け垣の上にも
植え込みにも、大きな大きなタイサンボクにも。…そして、庭で一番大きなヒマラヤスギ
のてっぺんに、白く大きく輝く星と、そこから円錐形にしだれ落ちる、光、光、光。
「……!」
窓の外は一面、輝く銀世界に変わっていた。
「今年はサンタさんとかいないねー」
「うん、トナカイもいないねー」
子供達が言い合っているところを見ると、どうやら毎年恒例のイルミネーションらしい。
大地の父親が今年はシンプル云々と言っていたのはそういう意味か。
少しだけ腑に落ちて律が一つうなずいたとき、傍らにいた女の子が両手を頬に当て、ほう、
と息を吐き出した。
「…でも、とってもきれい。……夢みたい」
そのうっとりとした表情を見て、律の瞳も柔らかく笑んだ。
雪国に生まれ育って、雪景色なら見慣れている、…そう思っていた。けれどこうして、夕
映えの茜色を受けながら輝く光の雪景色というのは、また格別で。
「…きれいだな」
少女の言葉に呼応するように、律もぽつりとつぶやいていた。


会計を済ませて外に出ると、大地が出来栄えを確認するかのように、腰に手を当てて庭を
見回していた。
「…すごいな」
近づいてそう声をかけると、
「律の故郷の雪景色には、きっとかなわないだろうけどね」
穏やかに大地は応じた。
「…でも、まあ、まずまずの出来かな」
言いながら、ヒマラヤスギを見上げる。同じ角度で木を見上げて、
「…きれいだ」
律は待合室でつぶやいたのと同じ感想を洩らした。
…つぶやいたとたん、何かが唐突に胸に押し寄せてきた。律は思わず胸元を握りしめる。
「……律?」
その律の様子に気付いた大地が、驚いた口調で声をかけてきた。
「寒いのかい?」
「いや」
律は首を横に振った。そうするうちにも衝動は律の心を満たし、あふれ、指先にまでひた
りと満ちて。
「…こんなに綺麗なものを見たから、…苦しくて」
「……苦しい?」
大地が怪訝そうに眉を寄せる。律はどこかぼんやりとおぼろな意識のまま、口走っていた。
「…音楽があふれ出しそうで、…弾きたくてたまらない」
「……っ!」
大地が息を呑むのが聞こえて、…律ははたと我に返った。言ってはならなかったと気付い
たが、後の祭りだ。
大地が律の心を慰めようと、毎年恒例の明るいイルミネーションを静かで美しい白い雪景
色に変えたのだろうということは想像がついていた。だから、ああきれいだな、と、それ
だけ伝えるつもりだったのに。
「……!」
美しすぎて、美しすぎて、感情が全て音になる。生まれ続ける音を身体から吐き出したい
のに、この腕は今弓を持つことを許されず、ヴァイオリンなしでこのあふれ出る感情にふ
さわしい音は与えることは律には出来ない。
苦しくて、苦しくて。……だけど、もしかしたら。
「律、…その…」
律は、何か言おうとした大地の手にそっと手を置いた。
「……弾いてくれ、大地」
ささやくような声で。
「俺の代わりに、俺の音をなだめてくれ。…お前のヴィオラなら、…お前の音なら、きっ
と」
……大地の音はきっと、自分の衝動をなだめてくれる。一流のヴァイオリニストのヴァイ
オリンよりも、今は大地のヴィオラがほしい。…なぜか、そう思った。
「……りつ」
大地は戸惑うようだったけれど、律がすがるようにその目を見上げると、
「……っ」
喉を詰まらせ、ぐうっ、と、奇妙な音を出して何かを呑み込み、頬骨のあたりに朱をはし
らせて、
「…わかった、よ」
少し途切れてかすれる声ながら、律の望みを受け入れた。
「…俺のヴィオラじゃ絶対役不足だろうけど、少しでも律の気が治まるなら」
律は微笑んだ。
「……ああ。きっと治まる。……だから、聞かせてほしい」
クリスマスの聖なる夜、ベツレヘムの星、嬰児とその御母、もみの木にひいらぎに羊飼い。
聖なるものを讃える曲を、美しい祈りの曲を、君のその優しい手で、どうか奏でて。
「何が、聞きたい?…なんて、言えるほどのものはきっと弾けないけど」
「謙遜しないでいい。大地の音が聞きたいんだ。…最初は、もみの木がいい」
大地は眉を上げた。律はその瞳を見て、笑った。
君は覚えているだろうか。一年前の、あのクリスマスを。
「……了解」
静かに微笑みを返してそっと誘う手は、外で作業をしていたためかひどく冷たかったけれ
ど、誘いに応じてつなぎ握りしめれば、その芯はとても熱いと気付く。

−…この手を放したくない。

ふと、律は思った。
…何故そう思うのかは、今はまだわからないけれど。