強欲

「そういやこの間如月の弟の方から聞いたんだが」
エスプレッソを一息でくいと干し、薄いな、としかめっつらでつぶやいてから、千秋がふ
と蓬生を見た。
「榊は医者の息子なんだってな」
「らしいなあ」
気のない様子で蓬生はアイスコーヒーのストローをゆっくりと回している。白く渦を巻い
たミルクがゆっくりとコーヒーに混じり合って、色がとろけていく。
「俺もついこの間、本人から聞いたわ」
「…何だ、知ったのは最近か」
「そうや。…別に家業なんて詮索する趣味はないし。…なんで?」
「いや。お前は医者嫌いだから、それで榊を必要以上にいじめたりかまったりするのかと
思ってた」
「……」
蓬生は何も答えなかった。表情の薄い顔で、ゆっくりとコーヒーを混ぜ続けている。エス
プレッソを飲み終わってしまった千秋が、手持ちぶさたそうにテーブルに片頬杖をつき、
空いた手で行儀悪く蓬生のグラスを指さした。
「あんまり氷を溶かすと不味くなるぜ。エスプレッソでさえ薄いんだ。アイスコーヒーな
ら余計だろう」
「うん」
指摘されながらも、蓬生はまだストローを回している。意図のある動きではなかった。た
だ手を動かしたかったのだ。
「……なあ千秋」
ようやく混ぜる手を止めて、蓬生は顔を上げ、千秋を見た。退屈そうに窓の外を行き交う
買い物客を眺めていた千秋が、蓬生に顔を向け直す。
「なんだ」
いつもと変わらない、強く魅力的な笑顔。どこかいたずらっ子のようで、つられて微笑ん
でから、蓬生は少し目を伏せた。
「俺が必要以上に榊くんにかまってるって、…気付いとった?」
はあ?と千秋は声を少し高くする。
「菩提樹寮で気付いてない奴があるか?…あれだけ楽しそうにいじめてれば、俺でなくた
って誰だってわかるだろう。あの超鈍の如月律でさえ気付いているさ」
「それはそうやけど」
…そうやのうて、俺が榊くんと何をしたかも、…気付いてるんか?
喉元まで出かけた問いを、…迷って迷って迷って、……結局。
蓬生はストローをそっと口に含み、水で薄まってまずくなったアイスコーヒーと一緒に呑
み込んだ。
聞くなら今だと、…今を逃せばもう聞けないと、わかっていたのに。まるで誘うように与
えられた場を、自分から逃げ出して。
「それはそうやけど、…何だよ?」
「…いや、何でもない」
「……」
千秋がまた頬杖をついた。強い目が自分を見ている。蓬生は顔を上げた。
「…何や?」
「何でもねえよ。……一口飲ませろ。その不味そうなアイスコーヒー」
「不味いってわかってるんなら呑まんときぃな」
「不味いもの食いたさってのがあるんだよ」
「怖いもの見たさみたいな?」
「そう」
千秋の方にそっとグラスを押しやると、千秋は蓬生が口を付けたストローでぐいと一口コ
ーヒーをすすり、顔をしかめた。
「…せやから言うたのに」
「いや、とりあえず不味いってわかってすっとした」
「何やそれ」
「返す」
グラスが押しやられて返ってくる。ストローをもう一度口に含んで、蓬生は知らず知らず
に声を殺して笑い出していた。
…これが榊くんやったら、間接キスになるなあ、って絶対からかうんやけどな。
千秋やったら、もうそんなん今更で。
……俺が今更って思う時点で、千秋もそう思っとんのやろなって思えて仕方がなくて。
やっぱり、ここから抜け出すなんて無理なんかなあ、なんて思ったりもする。
「何だよ、楽しそうだな」
「楽しいよ。千秋とおるもん。…千秋は楽しないん?」
「聞くことか?」
強い笑顔。大好きな笑顔。…今、自分のためだけにある笑顔。

蓬生も嗤う。
……この幸せで満足できない自分の強欲を嗤っている。