逆襲

夏のコンサートが終わって、新執行部に業務を引き継いでからというもの、大地がオケ部
の部室に来る機会はめっきり減った。引退演奏のための練習日や全体ミーティングには顔
を出すが、それ以外は黙々と図書館にこもっている。秋から医学部受験に本腰では無理も
ないことで、今も部活に出ている律と共に過ごすことはほとんどなくなった。会えるのは
昼休みと下校時間くらいだ。なのでいつのまにか、部活が終わった律が図書館に大地を迎
えに行くのが日課になった。
大地はいつも同じ席に座っている。足音を潜めたつもりはなかったが、律が近づいても全
く気付かないので、とん、とその背を叩いた。
「…律」
振り返る大地は穏やかに笑う。
「根を詰めているな。…大丈夫か?」
「大丈夫だよ。…あーその、勉強が進んでいるかどうかの大丈夫じゃないけどね、やる気
の方」
律は少し首をかしげた。
「…やる気?」
「そう」
大地は図書館の固い背もたれに肘をつき、律を見上げる。
「本当言うと、俺はずっと迷っていたんだ。医者になるかどうか」
その言葉に律は軽く目を見開いた。
「初耳だ」
「だろうね。誰にも言ったことはない。…まあ、親父はなにがしか勘づいていたみたいだ
けど」
大地の長い指が、手持ちぶさたそうに数学の参考書をはらりとめくる。
「うちは医者一家だ。両親のことも、祖父や曾祖父のことも尊敬してる。やりがいのある
仕事だとも思ってる。…けど、あまりに身近な仕事すぎて、医者が万能じゃないことも嫌
というほど知っているから」
「…万能じゃない?」
大地の言いたいことが見えてこない。律はゆっくりと首をかしげた。
「…医者にかかれば治る。…普通みんなそう思っているだろう?末期ガンの患者さんや何
百万人に一人といった難病の患者さんを別にすれば、たいていの人は医者に行けば自分は
治ると考える」
けど、と言って大地は顔をしかめた。
「実はそうでもない。完治させるのは意外と難しい。たとえば律の…」
言いかけて絶句する大地を、励ますように律は微笑む。
「…俺の腕とか?」
「……うん」
ややためらいの間をおいて、大地はうなずいた。
「腱鞘炎は、これで完治したという状態になかなかならない。使わないでいれば楽にはな
るけど、人間は手を使わないと生きていけないしね。……そんな風に、だましだましで病
と一生つきあわないといけない人達は、結構大勢いるんだ」
「でもそれは医者のせいじゃないだろう」
「そうかもしれない。…でも歯がゆい」
そこまで思わなくとも、と律は少し思ったが、しかしそういうところが友人の真面目さで
あり良さなのだ。わかってる。
「だからためらっていた。医者になるのが少しだけ怖かった。……でも、気付いたんだ。
完治させることは出来なくても、痛みを取り除くことは出来る。重い気持ちや苦しみを、
少しだけやわらげることは必ず出来る。……難しいかもしれないが、俺はそういう医者に
なりたい」
目標が出来た。やる気が起きた。
「俺がそう思うようになったのは、律のおかげだ」
「…俺?」
「ああ。……丸一年、律の腕と痛みに寄り添わせてもらえたことで、自分のなりたい医者
の姿や目標が見えてきた。気持ちが固まったのは律のおかげなんだ。…感謝してる」
熱を帯びた瞳で一心に見つめられ、少々照れくさい。
「よくわからない、が、……俺は何か、大地の役に立てたのか?」
「ああ、とてもね」
「…そうか」
律の頬に笑みがふっと浮かぶ。
「……うれしい」
「……?」
大地は珍しくきょとんとして、首を小さく傾けた。
「大地にはわからないだろうな。俺が今どれだけうれしいか」
静かにふつふつと、わきあがる喜び。
「俺はずっと、大地に何か返したかった。…俺は大地からもらってばかりで」
「バカだな、律」
まだ続けようとした言葉を、笑いながら大地が遮った。
「もらってるのは俺の方だよ。…俺は全部、律からもらった。全国優勝という夢も、音楽
という喜びも」
……そしてこの、人を恋する暖かさも。
律が赤面するようなことをさらりと付け加えてから、大地は穏やかに微笑んだ。
「ありがとう律。…感謝してる」
だが、殊勝なそぶりを見せたわりに、すぐに剣呑なことを口走るのが大地の大地たる所以
で。
「ここが図書館じゃなかったら、今すぐ律にキスするのになあ」
…ふうん?
ちらり、律の中に悪戯心が動いた。自分を見上げる大地の額。少し身をかがめるだけで届
く距離。周囲に人目はない。……ためらいは感じなかった。
素早い身のこなしで羽根が触れるようなキスを一つ落とす。
「……っ!!」
慌てたのは大地だ。耳まで赤くなり、キスされた場所を手で押さえる。人気のない場所と
はいえ、図書館の中だ。他にも生徒がいる場所で、律から、なんて。
さぞ思いがけなかったろう。律はふっと唇だけで笑った。
「勉強熱心もいいが、もう図書館が閉まる時間だ。そろそろ片付けて帰ろう」
けろりと話を変えてやると、大地は恨めしそうに律を見て、しぶしぶと参考書やノートを
片付け出す。ぶつぶつと小声でつぶやきながら。
「……俺には、校内で理性をなくすなとか言ったくせに」
「俺は別に理性をなくしたわけじゃない。…今すぐキスしたいとか言ったのは大地じゃな
いか。応じただけだ」
「……律」
その情けない声に、笑いが止まらなくなる。…声を潜めながら、けれど身を折って笑い出
した律に、大地がひたすらため息をつく。

自分だけが感謝していると、熱を上げていると、思わないでほしい。
俺も、いつだって君と同じ強さで恋している。