玉

それは、…風のような気配だった。
遠夜はふと顔を上げ、その気配を探った。
土蜘蛛から人となった今、以前持っていたような感覚は少し薄れつつあったが、それでも
何か、…目に見えない、心の琴線にふれるような感覚は完全には失われていない。
なにかが見えたわけでも、聞こえたわけでもない。
…だが、なぜか、そこに行かねばならない、と遠夜は思った。
…思ったら、じっとしてはいられない。
遠夜は立ち上がって歩き始めた。
橿原宮の、宝物庫へ。

渡廊を少し早足で歩く。遠夜を見とがめる者はいない。彼が女王の大切な巫医だと皆知っ
ているから。彼が宝物庫の方へ歩を進めても、黙礼だけで見送ってくれる。
が。
遠夜はひたりと足を止めた。
………誰かが、行く先にいる。
大柄で、華やかなその姿。大振りな翼。……よく知っている、明るい瞳。
「……サザキ!?」
「よう、遠夜」
遠夜は慌ててサザキに駆け寄った。
「高千穂にいるのだと思っていた」
「ああ、帰った、帰った。守り神様も元通りの場所に収まってくれたし、じいさんたちも
機嫌なおったし、まあいつも通りの生活に戻ったんだが」
サザキはがしがしがしと頭をかいて。
「なんか、それだけだと物足りなくってなあ。…姫さんに、会いに来ちまった」
遠夜は思わず笑みをこぼした。
「それでさ、船を手に入れたんだ、船!」
子供のようにはしゃいで、サザキが言う。
「港に見に来いよ、遠夜!」
「うん、ありがとう。…でも、それを誘いに、ここに来たのか?」
首をかしげて問うと、サザキの顔がふっと曇った。
「…いや」
それから首をすくめて。
「……もしかしたら、お前もなんじゃないのか、遠夜」
遠夜の瞳をのぞき込む。
「…」
返答を迷って、遠夜が曖昧な顔をしているとサザキが言葉を足した。
「お前も、…誰かに呼ばれている気がして、ここに来たんじゃないのか」
遠夜は、そのこぼれそうな大きな瞳を、二度三度と瞬いた。…それからそっと口を開く。
「…サザキ、も?」
「……ああ」
もともと、姫さんの顔を見ようと思って、この宮に来ただけなんだけどな。
「足を踏み入れたら、…なんかこう、なんともいえない気配がするんだ。…こっちに来な
きゃいけないような、胸騒ぎみたいな」
周りを見渡しても、誰もそんな風にそわそわはしていない。俺だけか、とも思ったけど。
「なんというか、…いてもたってもいられないような気配なんだよなあ、それが」
「…俺も」
こくり、と遠夜はうなずいた。
「どうしてもここにこなきゃならない、って、そんな気がした」
「…ああ、お前が来てくれて良かったぜ、遠夜」
サザキはそこでにやりと笑った。
「…?どうして?」
「どうしても何も。…この先は宮の宝物庫だろう?…前忍び込んだから知っている。いく
ら姫さんの仲間だったとはいえ、俺は元盗賊だ。その俺がこんなとこうろうろしていたん
じゃ、痛くもない腹を探られて、よくて宮から放り出される、悪けりゃ牢屋に放り込まれ
るぜ」
そんなことは、とは、さすがの遠夜も言いかねた。しかたなく苦笑する。
「…ともかく、行こう。…この気配は、どうやら俺たちを呼んでいる。行かなきゃならな
い」
サザキはばさりと翼を広げた。…遠夜もうなずいて、まっすぐに宝物庫へと歩を進めた。

宝物庫に、鍵はかかっていなかった。…いるはずの、番人すらいない。
「……?」
「……?」
サザキと遠夜は顔を見合わせた。…一つうなずいて、サザキが宝物庫の扉に手を掛ける。
開けると、少しかび臭い空気が外に流れてきた。…が、それだけだ。
またサザキと遠夜は顔を見合わせて、…今度は二人同時に、宝物庫に足を踏み入れた。
貴重なものの中には日光に弱いものも混じっているので、宝物庫は小さな明かり取りの窓
とたくさんの通気用の隙間があるだけで、とても薄暗い。サザキはなかなか暗闇に目が慣
れなかったが、遠夜は比較的早く暗闇に目が慣れたようだ。きょろきょろとあたりを見回
して、…すぐに、はっと息をのむ声が聞こえた。
そして、つかつかと奥へと進んでいく。
「…おい?」
慌ててサザキはその後を追って、…彼もはっと息をのんだ。
宝物庫の一番奥。…そこに、…よく見慣れた男が立っていた。
「……柊」
遠夜が、その名を呼んだ。
男は二人の姿を認めて、うっすらと笑んだ。
「おやおや、おそろいで」
わざとらしい言い方に、少々サザキが鼻白むと、遠夜が常になく強い声で言った。
「柊が、俺とサザキを呼んだのだろう?」
「…なぜ、そう思うのです?」
おやおや、と柊に肩をすくめるいとますら与えず、再び遠夜が強い声で言った。
「那岐がいない」
サザキはその言葉に一瞬きょとんとしたが、柊はまたにやりと笑った。
「気配を取るなら、那岐だって聡いはずだ。けれど、ここに那岐はいない。…わざと、俺
とサザキだけが呼ばれたんだ」
「…そうなのか、柊」
サザキが問うたが、柊はふふと笑うだけで返事をしない。遠夜は変わらず、厳しい瞳で柊
を見つめている。
「…なぜ、いなくなった、柊。…ワギモが、とても心配している」
「…忍人のようなことを言うようになりましたね、君も」
同じ玄武の加護を受けると、性格が似るのかな。
「…俺と那岐が似ているように見えるか、柊」
思わずサザキはつっこんでしまった。…言ってから、遠夜に小さくにらまれて、ああ、混
ぜっ返している場合ではないのだと気付いたが、どうにもこの空気は彼には耐え難い。
しかたなく、混ぜ返すのはやめて、代わりに大きな声を出すようにした。
「なぜ俺たちを呼んだ。…ここで何をしている?」
「…あなたたちを呼んだのは、あなたたちに証人になってもらうためです。…これからこ
こで私がすることのね」
「…するって、何を」
「柊、それは」
サザキがぽかんと問い返しかけた声に、遠夜の声が重なった。目のいい彼には、柊が何を
手にしているのかがはっきり見えたらしい。
「それは、ワギモの大切な」
そう言われてサザキもはっとして柊の手元を凝視した。
彼は、色とりどりの八つの玉を持っていた。見覚えのある玉だ。旅の途中、少しずつ千尋
の手元に集まっていった、あの不思議な玉。
それが何の意味を持つのかサザキは知らない。おそらく千尋自身も知らないだろうと思っ
た。だが、彼女がとても大切に思っていたこと、それだけは知っている。
「柊、お前、何を」
「……あなたたちならば、わかるはずだ」
柊が低い静かな声で言った。
「…古い一族の記憶を宿すあなたたちならば。この玉が何であるか、わかるはずだ」
そう言われたとたん、きいん、と額の中心が熱くなって、サザキは思わず額を押さえた。
かすかにうかがうと、遠夜も手のひらを押さえてぐっと何かをこらえている。
「…柊」
「…日向の一族。月読の一族。星の一族。…かつて、最初の白龍の神子が輝血の大蛇を退
治た時にも、我らは彼女を助け守った。そのとき、初めてこの玉が地上にもたらされた。
…覚えているはずだ」
柊がそういったとたん、八つの玉の色がふうっと消えた。…まるで、篝火の火が消えるよ
うに、ふっつりと。
「…え?」
「…っ!」
次の瞬間、色を失った八つの玉が自ら光を放った。それはまるで真昼に遮るものの何もな
いところで見る日の光のような、あるいは間近で見る稲光のような、すさまじいまぶしさ。
サザキは腕と翼で目をかばった。遠夜も腕で光を防いでいる。
やがてすうっと光が収まったとき。
八つの玉はなかった。
「…柊!」
サザキは叫んだ。
柊はにやりと笑って、…その手のひらの中の、大きな一つの白玉を示して見せた。
「……なん…」
なんだそれ、と言おうとして、サザキは言葉を飲んだ。
形は全く違う。
だが、気配でわかる。
これは、先ほどの八つの玉と同じものだ。
「龍神の神子に再び助けが必要となる日が来れば、この玉はまた八つに分かれてそれぞれ
の守人を選ぶでしょう。けれど、今は、玉が眠るとき。…玉の眠りを守るのは、国の宝物
庫の役割ではない。星の一族です」
柊は淡々と、何の感情も含まれない声で話す。そこにはためらいも戸惑いもない。…いら
だちも憂いもない。
「この玉は、私が預かって参ります。もし誰か、玉の行方を問うことがあれば、そう伝え
なさい」
どこか命令口調で言われて、サザキは少しかちんと来た。
「…それで、お前たちも一緒に姿を消すのか。そして、また災厄の前になって姿を現すの
か?」
その瞬間まで、場を支配しているのは明らかに柊だった。…だが、そのサザキの言葉がこ
ぼれ出たとき、確かに一瞬、柊はひるんだ。
遠夜が咳くように言葉を継いだ。
「柊。ワギモは、星の一族の力を忌避しない。土蜘蛛だって、厭われない。なぜ隠れる」
だが、…遠夜のその言葉は、再び柊を鎧わせた。目に見えない壁が柊の前に生まれ、彼は
再び、あの憎らしいほどの平静さでにやりと笑ってみせる。
…一瞬の戸惑いなど、まったくなかった顔をして。
「…私は、星です」
詠うように、彼は言った。
「太陽とも月とも違う。…まぶしい昼間には、現れ得ないものなのです。……姿は見えね
どそこにある、と言いつつも、ね」
そう言って、柊は動いた。
なぜか、遠夜とサザキは指一本動かせなかった。
ふわりと、柊の柔らかい髪が遠夜の鼻先を通り過ぎる。そのとき。
…彼は、一つの竹簡を、遠夜の懐に押し込んでいった。
「……?」
唇さえ、動かない。問うことすら出来ない。
「…忍人に、渡してください」
話せるのは、動けるのは、柊だけ。
「…出来れば、使うな、と言ってください」
そのまま、彼は宝物庫の薄闇の中に消えた。いや、おそらく、戸口から出て行ったのだろ
う。でなければおかしい。
…だが、…遠夜にも、サザキにも、柊が、闇の中に消えていったように見えたのだった。

「……で、…これを置いていったというのか」
二人は、千尋に話をする前に、ともかくも、と忍人の部屋に押しかけた。
宝物庫のこと、柊のこと、玉のこと、…竹簡のこと。順々に訥々としゃべる遠夜に、サザ
キが混ぜ返しもしない。そのことに、忍人はきつく眉を寄せた。
…それが、事態の意味深さそのものだと、思い知らされて。
将軍は眉間にいつもよりも一つ多くしわを寄せて、懸案の竹簡を手に取った。
「…開けてない」
「というか、開けられなかった」
こもごもに遠夜とサザキが語る。
忍人はうなずいて、竹簡を止めている紐をはらりと解いた。
「……!」
眉間に、しわがもう一つ増えた。
「…なんだ?」
もうそのしわの数だけでもサザキは背中がぞくぞくする。怖くて、せっかく広げられた竹
簡を見ることさえ出来ない。
「……」
遠夜は無言で、それでも竹簡をのぞき込んできた。…そして、首をかしげる。
「…五、六、兵…?」
忍人はすらりと手を伸ばして、竹簡を再び巻いた。
「…忍人…?」
遠夜がおそるおそる声をかける。
「…ごめんなさい。…見てはいけなかった?」
「…いや」
忍人はかすかに遠夜に微笑んだ。…だが、眉間に、少し減ったもののしわが寄ったままで、
無理して作った笑顔なのだと知れる。
「…これは、棋譜だ」
そしてぼそりと言った。
「…きふ?」
「チャトランガを知っているか?」
「あの、出雲郷かどこかで柊がやってた遊びだろう?」
サザキが口を挟んだ。
「俺は、ああいう頭の痛くなりそうな遊びはごめん被るけどな」
くす、とかすかに忍人が笑う。今度は作り笑顔ではなかったようで、サザキは少しほっと
した。
「そうだ。…その駒の動きを文字になおしたものだ。…俺が考えたやり方だから、俺と風
早と柊くらいしか、これは読めない。…他の兄弟子たちは、俺は頭が痛くなるからやらな
いと言ったり、見るだけで楽しいですよと参加なさらなかったりで、勝負したことはない。
だから棋譜を見せたこともない」
風早も、既に橿原宮から姿を消している。そして柊も。
…必然的に、これを読めるのは忍人だけだ。
…否。
この棋譜の真の意味を知っているのは、…おそらく、もともと、忍人だけなのだ。
忍人は再び竹簡を紐でとじて、乱雑に棚の中につっこんだ。
「…行こう。…姫に、…いや、女王陛下に、今回のことを報告しなければ。遠夜、サザキ、
君たちは大切な証人だ。一緒に来てくれ」
「…そりゃ、かまわねえけど。元からそのつもりだったんだし。…でも、忍人、…あれは?」
サザキがあごでさしたのは先ほどの竹簡だ。…彼の棚には他のいろいろな竹簡が山と積ま
れていて、それと知っていなければ既に見分けが出来なくなっている。
忍人は戸口へ向かいながら、ちらりとサザキを振り返り、…サザキ越しに竹簡を見て。
またふいと前を向いた。
「…柊は使うなと言ったのだろう」
唇を噛みしめた顔は、…なぜか幼い子供のように見えた。
「だから俺は使わない」
それだけ言って、あとはもう無言で、彼は大股に女王の居室へとその歩を進めた。
きつく握りしめられた手だけが、彼の無言の非難だと、…サザキも遠夜も気付いたけれど、
その非難の対象は既に彼を置き去りにしていて。
ただ、忍人の背を追うことしか、二人には出来なかった。