背反 門限ぎりぎりに寮に戻ると、蓬生は玄関ではなく非常階段の入口へ回って、まっすぐ風呂 場へと向かった。 幸い、廊下に人影はない。ラウンジの方からは明るい声が聞こえているので、恐らく至誠 館のメンバーや寮生はまだ部屋に戻らず、話に花を咲かせているのだろう。 風呂場にも誰もいなかった。ようやく安堵の息をついて、蓬生はシャワーのコックをひね る。熱い湯を出して浴びながら、石けんで全身をこすった。うなじも、鎖骨も、こめかみ も、髪の先まで、…コロンで濡れた彼の指が触れたところは、特に念入りに。 ……ごめんな、榊くん。 蓬生は息を吐いた。 …実験結果を報告するやなんて、大嘘や。俺は絶対に、この実験だけは知られとうないね ん。 石けんの泡が目に入って、少ししみる。蓬生は乱暴に腕でぬぐった。 …千秋には知られてもかまへん。知られて困る相手が千秋だけやったら、俺かって実験に 躊躇はせえへん。そもそも俺がやり始めたことや。…せやけどもし、もしも、…俺と君の 関係が如月くんに知られたら。 「…」 蓬生は、シャワーのお湯の下で固まった。 ……俺は、それが怖い。 頬を伝うものはシャワーの湯だと、蓬生は思いこむことにする。 ……なあ、知らんかったやろ。俺はな、好きやねん。君と如月くんがごく自然に一緒にお るその姿が、めちゃくちゃ好きで好きで。 当たり前のように、お互いを信じていると、眼差しから伝わる温かさ。初めて見たときか ら目を引いて、気になって。 ……あんまりきれいで、たまらんかった。 まっすぐに律を見つめて、その傍に静かにある佇まいこそが大地本来の姿だ。何があって もその関係は揺らがないと信じていた。 「……っ」 蓬生は、腹の底から息を吐いてシャワーの湯の温度を下げる。 …ぬるま湯から、…水。 きゅっと頭が冷えて、我に返った。 コックをひねって水を止め、ぶるりと頭を振る。水の飛沫が弧を描いて飛んだ。その軌跡 を見送って、ゆるゆると蓬生は苦く笑い出す。 ……わかってる。あの晩君の手をとったらどうなるか、想像せんかったわけやない。せや のに俺は君の手を振り払わんかった。君を俺という深みにはめた。その俺がどの口で、君 たちの関係を守りたいなんて言えるんや。 ……君に甘えたかった。いや、今も甘えてる。それも確かに俺の真実。 自分の中で背反する二つの心を蓬生はもてあましていた。大地がゆるゆると蓬生の深みに はまっているように、蓬生もまた、大地の深みにはまりつつある。その広い腕の中で抱き しめられる心地よさを、冗談にねだっても本気で答えてくれる優しさを、蓬生の身体は覚 えてしまった。 「…せやけど、大丈夫。…今なら」 我知らずつぶやいたことに、蓬生は唇をゆがめた。 もうすぐ夏は終わる。横浜を離れる日が来る。まだ間に合う。引き返せる。離れてそれっ きりにすればいい。すぐには忘れられなくても、時を過ごせばきっと何もなかったことに できる。 最後にもう一度熱いシャワーをざっと浴びて、蓬生は脱衣所へ戻った。かばんの中のスポ ーツタオルで手早く身体を拭く。 かけなおした眼鏡が湯気でくもった。拭こうと取りだしたハンカチからころり、小さなビ ンがころげだす。 「……」 身をかがめ、そっと拾い上げると、かすかな芳香がただよって、…不意に胸が詰まった。 「……っ」 大地がビンを引き取ろうとするのを止めた時点で、もう自分は一歩を踏み出してしまった。 この香りが手元にある限り、もう、なかったことには出来ない。たとえ捨てても、忘れる ことは出来ない。 未練を残すのは浅ましいか。未練を残しても、彼はそれを許してくれるだろうと考えるの は図々しいだろうか。 たった今、必死で消したばかりの香りを手の中に握りしめ、愛おしく口づける自分を、蓬 生は嗤う。 今ならまだ引き返せるという声が徐々に遠くなり、…やがて消えた。