葉一片

その男は薄手のハイネックのセーターに細畝のコーデュロイのジーンズを履いていた。
ゆるく束ねて背中に垂らした軽いウェーヴのかかった長い髪と、瞳がのぞけないほど色の
濃いサングラスは、保守的な人が多く住む、この小さな街の住宅街では少し異質だったが、
風景から浮いてしまうほどではない。風早のことがお気に入りの裏の家のおばあちゃんな
どは少し眉をひそめるだろうが、まあ、その程度だ。
それに、彼にはそれがよく似合っていた。だから那岐も、遠くに彼の姿を見かけたときは、
何とも思わなかった。
那岐は買い物に行こうと家を出たところだった。
夕食を作りかけてふと冷蔵庫を確認すると、マヨネーズがなかったのだ。じゃがいもはも
うゆでてしまっている。マヨネーズなしでもおいしく作れるポテトサラダはあるかもしれ
ないが、あいにく那岐はそのレシピを知らないし、新しく考案する気もない。料理に関し
ては、忍人よりも千尋よりも那岐は保守的だった。
今日は忍人も風早もまだ帰ってきていない。千尋を夕方の家に一人残すのは気が引けたが、
幸い今日は曇っていて夕焼けは見えない。少しの間ならいいかと、財布を掴んで那岐は家
を出た。いってらっしゃい、という柔らかく明るい千尋の声を背中に受けて。
どんよりと、今にも降り出しそうな重い雲がたれ込めている。本当なら赤く染まっている
はずの西の空も、重たい灰色をしている。かろうじて、そちらの方が少し明るいので、時
計を見ればあちらが西かと見当がつく程度だ。
家を出てすぐ、那岐は道の向こうの方に人影があることに気がついた。
子供達はそろそろ家に戻る時間だが、まだ下校の学生や夕食の買い物をすませて家に戻る
母親達はうろうろしていてもおかしくない時間なのに、何故かその瞬間、道には彼と自分
しかいなかった。
もっとも、こんなうっとうしい天気だ。
別に、気味悪く思うほどのことじゃないか。元々この道、そんなに人通り多くないし。
心の中で那岐はそうつぶやいた。少し過敏になっているようだと、自分で自分に呆れて那
岐は一つ肩をすくめ、目指す店の方へと早足で歩き出した。
男は那岐の方に向かって歩いてくる。この先には住宅街が続くばかりで、駅も店もない。
その割には見かけない顔だけど、と思いながらすたすたと歩き続けて、後数歩で彼とすれ
違う、というところまで来たとき。
那岐はふと、体の左側の産毛だけが総毛立つような感覚を覚えた。
斜め前から男が近づいてくる。サングラスで目は見えないが、口元には穏やかな笑みが浮
かんでいる。足取りに迷いはない。道を捜している様子はない。いかにも勝手知ったる我
が町、という感じで、やはりこの先の住宅のどこかに知り合いか家族がいるのだろうと思
われた。
それなのに。
もはや、那岐の全身が彼を警戒してしまっている。早かった足取りもぴたりと止まってし
まった。
彼はゆっくりと近づいてくる。
すれちがってようやく、はっと気付いた。
この、匂い。
深い森の奥のシダのような匂い。長く生きた木々の樹皮の匂い。清しく強い森の空気。…
たとえどんな深山に分け入っても、今那岐がいる世界では得られぬもの。
これは、豊葦原の匂いだ。
那岐が思わず男を振り返ると、その気配を察したのか、まっすぐに歩き続けていた男がふ
と足を止め、肩越しに那岐を振り返った。顔の右半面だけが那岐に向けられている。その
鼻梁の形と頬の線に見覚えがある。
…那岐の脳裏に激しい雨がよみがえった。
間違いない。彼は、あの雨の日、耳成山を見ていた男だ。
「…何しに、きた」
那岐は胸ポケットを探る。御統はいつもそこにいれてある。
男は那岐を見て、どこか傷ましそうに微笑んだが、何も言わない。
「あんた、豊葦原の人間だろう?…千尋を連れに来たのか?」
男は微笑んだまま、ゆるゆると首を横に振る。いかにも、まさかそんな、というそぶりに
不安が募る。
そうだ、あの日も彼が見ていたのは、那岐達が住む家ではなかった。千尋は家の中にいた
のにだ。彼は脇目もふらずにじっと、耳成山を、…忍人のいる場所を見つめていたではな
いか。
指先が冷たくなって、那岐はぐっと手を握りしめた。
「じゃあ、…忍人を連れに来たのか?」
那岐がおそるおそる絞り出した声に、男ははっとした様子だった。それまで全く動揺を見
せなかった顔に、明らかに驚きの色がある。
「…何を」
「ひどい雨が降った日、そこの路地の電柱の陰にいたの、あんただろう?…千尋じゃなく
てあんたは忍人がいる場所をじっと見てた。僕の気配に気づきもしないで、じっと耳成山
だけを見つめていた。…まるで」
そこで那岐は言いつのろうとした言葉を飲み込んだ。
『まるで恋人を見るような眼差しで』
そう続けようとしたのだったが、…そう言ってしまうことは何か恐ろしいことのような気
がしたのだ。
那岐が少し怖じたせいだろうか。男の目からは驚きが消えていた。代わりに、どこか疲れ
たような色が浮かんでいる。
「…君はどうにも、無駄に鋭いですね」
無駄って何だよ、と那岐は少しむっとしたが、口にはできなかった。さっきからずっと、
うなじの毛が逆立つような、そんな感覚が消えない。軽口を叩く気にはどうしてもなれな
かった。
男は那岐のそんな気持ちをどう忖度するのか、疲れた表情のまま少し笑った。
「…あいにく、私には、何かをどこかへ連れて行くような力はありません。私はただ見て
いるだけ、…見えるだけです」
「…見える?」
男の言葉の意味がわからなくて、那岐はオウム返しにそうつぶやいた。
「そう。…見えるんです。闇の中で、この暖かい場所にたどり着くための光る道や、君た
ちの先に待つ未来の風景のかけらが」
那岐はましましと目を丸くした。
「…未来が見える?」
男が今度浮かべた笑みは苦かった。
「…見えたって、何の足しにもなりはしませんがね。君の指摘通り、私は豊葦原の人間で、
この世界では偶然道がつながった時間に迷い込めるだけにすぎませんから」
その後を男は飲み込んだが、那岐には、彼が言わなかった言葉が聞こえた気がした。
…自分がいない時間に起きることに、手出しはできません。
「……」
挟むべき相づちが見つからない。那岐が少し眉をひそめていると、男はふいにさばさばと
した顔になった。
「…でも君は違う」
「…?」
「何故君は、私を豊葦原の人間だと思いました?」
「何故って、…匂いが…」
「匂い?」
「深い森の奥のような匂いがあんたからする。…この世界ではあり得ない。その匂いは豊
葦原のものだ」
男は少しうつむいて右手をあげ、指先を口元に当てた。手袋をしているんだな、と、その
とき初めて那岐は気づく。
「匂いね。…なるほど」
男は一人言のようにつぶやいて、こそりとシャツの胸ポケットを探る。思わず那岐も胸ポ
ケットに入れた手に力を込めたが、彼が取り出した物は武器ではなく、一片の葉だった。
赤く色づいているが、カエデなどの紅葉ではなく楠の落葉のようだ。
確認するようにその葉の匂いをかいで、彼はまた顔を上げた。
「では、その匂いに気をつけてください」
「…は?」
「この世界で、豊葦原の匂いを持つものに注意なさい。…私に言えることはそれだけです」
「……え?」
不得要領な那岐の顔には気づいているだろうに、男はそれ以上の説明はせず、まるで待ち
合わせに行くかのような調子でこう言った。
「ああ時間だ。……君に会えて良かったですよ、那岐」
「…!」
那岐のうなじの毛がまた逆立つ。
「僕の名前っ…!なんで…!?」
見ず知らずの男のはずだ。あの雨の日をのぞけば初対面のはずだ。名乗った記憶もない。
なのに何故。
「…また会いましょう」
男は笑って、手にした落葉を那岐に差し出してくる。那岐がその仕草の意図がわからずに
手を差し出せずにいると、彼は静かに葉を放した。ひらひらと回りながら落葉が落ちてい
く。葉が地面に落ちようとしたまさにその瞬間、…彼はゆらりと消えた。まるで映像が消
えるように。
男が幻でなかった証拠に、男が持っていた楠の赤い葉はその場に落ちていた。
狐に化かされたような気持ちで、那岐はその葉を拾い上げる。
小さな葉は、けれど確かに、豊葦原の匂いがした。