始まりの朝 早朝の坂道を行くのは、遠距離を通勤通学する人達ばかりのようで、皆脇目もふらず、前 を見据えて精一杯の早足で歩いている。早足、小走りというよりは、いっそ全力疾走に近 い人もいて、悠長にたらたらと歩く大地は、少し申し訳ないような気持ちがした。 夏至に向かって日を重ねるこの時期は夜明けが早い。六時台のこんな時間でも十分に日は 高く、光は白くてまぶしい。 大地はふと時計を見た。 目的の四つ角まであと少し。その角を曲がれば学校、このまままっすぐ行くと菩提樹寮だ。 大地が少し祈るような気持ちで足取りをなお遅くしたとき、前方に人影が見えた。 この辺りを星奏学院の制服を着た生徒が歩くのは珍しくない。学校まではもうすぐだし、 寮もすぐそこだ。車で通学という生徒もいるにはいるが、まれな話だ。 その生徒はヴァイオリンケースを持っている。実はこれも珍しくない。星奏は音楽科があ るから、ヴァイオリン専攻の生徒はみんな、ヴァイオリンケースと共に登校する。 …が、その正された姿勢と歩き方を見れば、どんなに遠くても大地にはわかる。 「…律だ」 大地が律に向かって手を上げる直前に、律の方でも大地に気付いたようだ。こちらを見分 けるのはたやすい。普通科で楽器ケースを持ち歩いている生徒はごく限定されているから だ。 同時に四つ角にたどりついた。 「早いな、大地」 まぶしそうに眼鏡の奥の瞳を細める律に、大地は明るく、 「偶然だね」 …嘘をついた。 …本当は、偶然などではない。 何気なく、いつもより早くに家を出た先週の金曜日、この四つ角を曲がったところで前を 歩く律を見かけた。いつも律は、自分より早く学校に着いていることも知っていた。だか らもしかしたら今日も、この時間にここに来るのではないかと、…同じ時間になるように 家を出る時間と歩く速さを調整しながらここに来たのだった。……決して偶然などではな い。 律はふと眼鏡に手をあて、まじまじと大地を見た。 「偶然か」 ぽつりとつぶやく。 どきりとした。…もしや、嘘がばれたのだろうか。偶然とうそぶくには、自分の行動はあ まりにもあからさまだったろうか。 どきどきと早くなる鼓動に気付かれぬよう、平静を装って、大地は、行こう、と四つ角を 学校の方に折れた。 「せっかく会えたんだ、…よかったら、朝練の時間まで少し俺のヴィオラの練習を見ても らえないかな」 「…、ああ」 物思いに沈み込む様子だった律は、はっと我に返った顔で、道を曲がる大地に肩を並べた。 少し緊張して歩く大地の横で、律はあくまで自然体だ。大地のペースをはかるでもなく、 淡々と自分のペースで前を見て歩いている。…否。 …ふっ、と、律が大地を見上げた。 「今日は、偶然早いのか?」 …また鼓動がはねた。 「…そうだよ。犬の散歩がいつもよりスムーズに終わって、朝の支度も手間取らなかった から。…何故?」 「…いや」 そう言って、律はまた前を向いた。 大地はどきどきした。いや、と話を打ち切った先、律は何を言おうとしたのだろう。やは り稚拙な嘘ではばれたかと、暗い気持ちになりかかったとき、律がぽつりと言葉を続けた。 「もし偶然でないなら、明日から一緒に登校できればいいなと、…そう思ったんだ」 ……っ。 「…律」 大地が律を見ると、律も大地を見ていた。照れるでもなく、ごく真面目な顔をしている。 「この時間に学校に行くと、朝練の開始までは結構自分の練習時間が取れる。大地がヴィ オラの練習をするのを俺が見てもいいし、一緒に練習してもいい。……いつも一人で練習 していて、それはそれで有意義なんだが、…もし大地さえよければ一緒にと、…そう思っ ただけだ」 言って、律は首をすくめた。 「俺の自分勝手な考えだ。気にしないでくれ。言わずにおこうかと思ったが、俺が口ごも ったことを大地が気にしているようだったから、一応言ってみた」 ……。 大地はごくりとつばを呑んだ。 「本当に、律はそうしたいと思ってくれるのか?」 律は眼鏡のブリッジをぐいと上げる。 「もちろん」 「俺がいることで、律の練習の妨げになったりはしない?」 「もしそうなら、一緒に練習したいなんて考えついたりしないだろう」 物わかりの悪い子供を諭すようなお兄ちゃん口調で律は言った。じわりとほころぶ頬が恥 ずかしくて、大地は口元を手で押さえる。 「…じゃあ、明日から早起きするよ」 「無理はしなくていい」 「別に無理じゃない。この時間にここに来るくらい、たいした早起きじゃないんだ。うち はここから近いし」 「大地はいいだろうが、モモは?」 律が、むしろそっちが心配だという顔で言ったので、大地は思わず吹いてしまった。 「モモには言い聞かせるよ」 「大丈夫なのか」 「素直で利口な子だから大丈夫」 大地のさらりとした親ばか発言を、律はやれやれという顔で応じたが、その口元もゆっく りとほころんだ。 「…言ってみて良かった。大地と一緒に登校できるのはうれしい」 「…」 律の言葉に他意はない。仲良しと一緒にいられることを喜ぶ、小学生のような意味しかな い。そうとわかっていても、その言葉は大地の耳を熱くした。 車が、住宅街のこんな場所にしては速いスピードで脇を通り過ぎていく。よけた律の髪が 頬に触れてどきりとするよりも早く、大地は律をかばうように車道側に出た。 「大地」 「俺がこっちを歩くよ。律は右手でヴァイオリンを持つだろう」 利き手が左手だからだろう、確かに律には右手でヴァイオリンケースを持つ癖がある。 「俺はヴィオラを左肩にかけるから、これでちょうどいい。…楽器第一」 「…」 律は、少し困って、少しうれしい、…そんな顔をして大地に笑いかけた。 「…ありがとう」 そうして二人、肩を並べて歩き出す。…この日から、…そして、この先もずっと。